浜松城の天守台石垣を鑑賞する

全国で「わたしの地元のお城には天守台しかない…!!」と嘆かれる方が多いようです。

ところが天守台の「台」とは、中国大陸の封禅(ほうぜん/皇帝が天に祈る祭祀)にも由来し、日本で建てられた「天守」においても、建築(建屋)と同等と申し上げてもよいほどの、重要な位置を占めた可能性のあるものと思われます。

そして当時、天守台の良し悪しは、天守の「出来」にかなり影響したと思われ、現代にポツンと遺された天守台も、昔そこにあった天守の出来を想像する「楽しさ」を与えてくれます。
そうしたややマニアックな「天守台の石垣鑑賞の魅力」を、新コーナーでご紹介してまいりましょう。


第1回目は静岡県の浜松城です。
この城は本来の天守が江戸時代にすでに無く、現在は下写真のような昭和33年復興の模擬天守が載ってはいますが、天守台周辺は魅力満載のまさに「逸品」なのです。






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この天守台を「鑑賞」してみますと、ここにかつてあった天守は、まるで三つの顔をもつ阿修羅像のように、各地の名城天守の要素を組み合わせた、相当に複雑な「趣味」を反映した天守だった可能性があります。

時系列を問わずに申し上げれば、その天守は例えば、織田信長の安土城天主、羽柴秀吉の姫路城天守、明智光秀の福知山城天守、そして後の松江城天守や福岡城天守まで、ちょっとずつ部分的に「コレクション」していたかもしれないのです。

しかもそのことが「天守台と周辺石垣から窺える」という点が重要です。
何故なら、それは大工棟梁の分限を越えて、城主みずからの積極的な関与が無くては成立しない話だからです。

天守を築いた城主が誰だったかについては、二つの説があり、第一の候補は元亀・天正年間に居城とした徳川家康で、もう一人はその後に入った豊臣大名の堀尾吉晴(ほりおよしはる)です。

広島大学の三浦正幸先生は、「元亀の創築以来、家康は浜松城の改修強化を怠らず、天正六年(一五七八)・天正七年・天正九年などに城普請を行ったという。そのころに浜松城の天守が創建された可能性は高い。」(『よみがえる日本の城11』2005)とし、
一方、織豊期城郭研究会の加藤理文先生は、「浜松城に築かれた天守はただ一度だけである。天守曲輪周辺の発掘調査により、天守に使用された瓦が出土したために判明したことであり、天正一八年(一五九〇)に堀尾氏によって築かれたものであった。」(『天守再現』1997)としています。


石垣

少なくともこの天守台石垣を鑑賞して言えることは、これを築いた城主は、各地の天守群を相当数、見ることが出来た人物であり、天守の「出来」にかなり執心した人物であったようです。
そうした見聞による趣味の深まりが「やや行き過ぎていた」印象さえ、遺された天守台からは感じられるのです。



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