ねじれ現象?本来の天守は東向き?南向き?

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石垣

写真は、天守台上にある模擬天守を、天守曲輪の中ほどから(南から)見上げた様子です。

この天守は、城郭研究のパイオニアの一人、城戸久先生の設計によるもので、ご覧のように天守台の東側だけを使って、(つまり北西奥の付櫓台「八幡台」を避ける形にして)南北に長い平面形で建てられています。
諸伝によれば、本来の天守も、初重が「八間四尺に五間二尺五寸」の矩形と伝わっています。

さて、この天守の正面はどの方角か?と言いますと、入口が、天守門や本丸・二ノ丸の方角である「東」に向けてあり、「東」が城の大手でもあるため、正面は「東」(写真では右側)にして建てられたと見るべきです。

しかし、ここで問題になるのが、先ほどの「天守曲輪が備前丸にそっくり」という一件です。


備前丸

備前丸は、秀吉時代は秀吉自身の生活空間「山里」であったとも言われ、また現存天守を建てた池田輝政の時代は、まさにその居館があった場所であって、城の大手も「南」とされたため、姫路城天守は「南」を正面にして(備前丸を向いて)建てられているのです。
(※ちなみに秀吉時代の天守も、礎石の配置から、入口は南北のいずれかと言えそうです。)

となると、浜松城の天守も、天守曲輪だけを考えると、本来は「南」を正面とする天守があっても良さそうなのです。

この問題もやはり、城を東向きの連郭式で築いた城主と、天守および天守曲輪を(難渋しつつ)整備した城主とが、「別人であった」可能性を示しているように思われてなりません。


石垣+


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