繰り返すようで恐縮ですが、天守曲輪から天守北側の帯曲輪につながる辺りも、姫路城を思わせる造りになっています。(※赤い鳥居は現代に遷宮した伏見稲荷社)
特にその手前、東西に走る低い石垣で、途中を仕切っているところは、姫路城でも、同じ辺りに東西に一直線に走る石垣があり、城主のこだわりを感じさせる部分です。
しかしここで一番ご注目いただきたいのは、そのすぐ東側に開いた「天守門」跡の空間です。
これを内側から見ますと、天守曲輪にはある程度の標高があるため、まさに姫路城の「との一門」から東方の城下を見下した雰囲気にそっくりなのです。
ひょっとすると、先程から問題の、天守の正面は東か南かという「ねじれ現象」も、ここに一つの着地点があるのではないでしょうか。
と言いますのは、この周辺を築く時、城主は「秀吉の姫路城もこうして東に登城道があったではないか…」という納得を、自らに言い聞かせたのではないか、とも思われるのです。