前々回の「秀吉の大坂城・前篇」は豊臣秀吉が創建した天守を中心にリポートしましたが、今回はその「後篇」として、そうした天守を生むに至った築城当初の大坂城について、驚愕の大胆仮説をご紹介してまいります。
上の4点の写真を一度、よく見比べてみて下さい。何かお気付きになりませんでしょうか?
左上は秀吉の大坂城を描いたとされる『大坂図屏風』で、右上も『京大坂祭礼図屏風』にある大坂城で、いずれも北西から眺めた様子です。
そして左下は、秀吉の正室「北政所(きたのまんどころ)」(ねね/高台院)が秀吉の菩提を弔うために建立した高台寺の庭園です。
写真は方丈から庭を見たところで、唐破風屋根の亭橋「観月台」で池を渡った先に開山堂があって、その奥に霊屋の屋根が見えます。これらの建物は北政所の存命中からあったものと言われます。
一方、右下は秀吉の盟友・前田利家の正室「松子」(まつ/芳春院)が前田家の菩提寺として建立した、大徳寺の塔頭・芳春院です。
中央に見えるのは、松子が亡くなった年に、子の利長が建てた楼閣「呑湖閣」(どんこかく)ですが、先の高台寺と同様に、唐破風屋根の亭橋「打月橋」で池を渡り、楼閣に入る形になっています。
このように4つの建築群はどれも、唐破風屋根のある橋で掘や池を渡って、目的の場所に至る「景観」が共通しています。…しかも、城の裏手と言われる北からの景観で。
これはもしかすると、豊臣大坂城の失われた本来の姿を伝えようと、“妻たちの追憶”とでも言うべきものが、それぞれの菩提寺の庭に密かに再現されたのではないでしょうか。
豊臣家が大坂夏の陣で滅亡に至ると、焼けただれた豊臣大坂城は江戸幕府の手で全面的に改修されました。現存の大阪城はその後の姿であり、来場者の多くは、江戸時代そのままに南西の大手口(生玉口)から入城しています。
ところが歴史資料として残る絵画においては、豊臣時代の大坂城は、搦め手(からめて)すなわち裏手の北西側からの描写が少なくありません。
この有名な屏風絵『大坂冬の陣図屏風』も、本丸(厳密には山里曲輪/山里丸)の北にかかる「極楽橋」(ごくらくばし)がさも本丸の大手口であるかのような角度で描かれています。(※屋根のある廊下橋は、慶長5年に豊国社に移築されていて、描写はほぼ史実どおりのようです)
このように城を眺める角度は、当時の多くの民衆が目撃していた景観とも、密接な関係があったように感じられます。
さて、2006年にオーストリアで発見された屏風絵もまた、豊臣大坂城がほぼ真北から描かれていて、城の「景観」問題(いや、城そのものの「構造」問題)に波紋を投げかけています。その点について上記の本では…
と解説しています。実は、この解説文の廊下橋の年代推定には大きな誤解があると思うのですが(→補足記事1 記事2)、いずれにしても、この文章を書かれた内田吉哉さんは、初めて広く公の場で「北を大坂城の正面…」という文意を表明された方で、注目に値することでしょう。
(残念!当サイトが先に表明すべきでした。悔しまぎれに申しますと、この件に最初に気づいたのは20年近く前です)
ただし城郭論から申しますと、こうした解釈は画期的でありながらも、城の縄張り(構造)上に“大きな矛盾”を生じてしまうのです。何故ならば…
ご覧のとおり、絵の景観年代がいつであれ、極楽橋を大手口として北から本丸に入ると、真っ先に数寄の空間である山里曲輪を通らないと表御殿にも奥御殿にも到達できない、という城郭の初歩的な欠陥を抱えてしまいます。
(※類似の構造として江戸城二ノ丸を挙げる論考もありますが、江戸初期の『慶長十三年江戸図』を見るかぎりは、そこに林泉や将軍生母の御殿を設ける余裕はまだありません)
このような例は、山里曲輪を好んだ秀吉の城でも皆無であり、上図のような構造では、当ブログの岐阜城の記事(岐阜に「白い四階建て月見櫓」を考える!)等で申し上げたような“迂回路”を想定することも出来ません。
ですから、上記の本の「北を大坂城の正面としている」という画期的な解釈は、実際には、豊臣大坂城に関する他の諸解釈をひきずったままでは解決できない(!)、という大きな壁に突き当たるのです。
さて、そこでご覧の『本丸図』は(一説に『南紀徳川史』で妙な伝説はあるものの)一般的には、築城当初の“本丸周辺だけの状態”を描いたとされる城絵図です。
ただし、この絵図にはいくつも不思議な点があり、その中に、今回の「景観」問題を説明づけてくれる《謎解きのメッセージ》が隠れているようなのです。
これまで『本丸図』は築城当初の様子と言われて来ました。
しかし秀吉の茶頭・津田宗及の『宗及茶湯日記』を見ますと、築城工事が始まって四ヶ月め、天正12年正月には「山里の御座敷開」きがなされていて、それにも関わらず『本丸図』の山里曲輪は一面の空白であり、茶室をふくむ建築物は一棟も描かれていません。
このことは、あえて、あえて仮説を申し上げれば、築城当初はここが“山里ではなかった可能性”(!?)を示しているのではないでしょうか。
もしそうだとしますと、そもそも『本丸図』は築城当初の絵図ではない?? そんな疑念もわいて来るのです。
さらに奇妙なのは、山里曲輪の中央に、井戸だけがポツンと描かれていることです。
この井戸の場所は2010年に石組み溝が発掘された地点ですが、これほど広い曲輪にただ井戸だけがポツンとあるというのは、少なくとも『本丸図』の他の井戸には無い状況です。
このことは、ひょっとするとこの『本丸図』が制作された時、すでに、山里曲輪からは相当な建築群が撤去されて(!)、井戸だけが残ってしまった状態を示しているのではないでしょうか。
以上のことから、もしかすると『本丸図』は築城当初の絵図ではなく、かなり時期が下って、山里曲輪の建築群がいっせいに撤去された後の時点、しかも、おびただしい間数の書き込みが示すように、本丸一帯の石垣の実測が改めて必要になった時代の絵図ではないのか――
そんな可能性も指摘できると思われるのです。
ご承知のように『本丸図』には通称「黄堀」「青堀」と呼ばれる二枚があり、いずれも御殿が色分けして描かれています。
この色分けが何を意味していたかは、これまでに諸説が挙がったものの、決定的な説明はなされて来ていません。
両者をよくご覧いただきますと、「黄堀」の御殿は二色(薄い黄色、濃い黄色)で塗り分けられ、一方の「青堀」は三色(薄い黄色、濃い黄色、オレンジ色)で塗り分けられていることがお判りになるでしょう。
例えば『本丸図』以外の絵図においては、色分けがその建物の計画(継続使用や移築など)を示した例があり、同じ中井家蔵の『二條御城中絵図』がそうです。
これを参考にしますと、従来、『本丸図』は築城当初の様子、という既成概念があったために思いもよりませんでしたが、『本丸図』の色分けも、実は各御殿の計画を示していた可能性が考えられるのです。
で、特にご注目いただきたいのが「青堀」の三色です。
例えばですが、三色をそれぞれ「継続使用」「移築」「建替え新築」という三種類の計画を示したものと仮定してみます。
このように「濃い黄色=移築」「薄い黄色=継続使用」「オレンジ色=建替え新築」と考えますと、そこに思わぬ事態が浮上するのです。
それは下図のように、詰ノ丸奥御殿は殆どが「継続使用」で、一部の殿舎や櫓だけが「建替え新築」であり、その一方、表御殿曲輪はほぼ全てが「移築」であるという、まことに綺麗な対比が表れるのです。
この仮説が示すストーリーを言い直しますと、奥御殿はおおむね築城以来の建築を維持したものの、表御殿は何らかの事情があって、まるごと大規模な移築がなされた、というストーリーになるのです。
(※ちなみに二色の「黄堀」は、移築と建替え新築が同じ色で表現されていて、つまりは継続使用か否かで全体を区分したようです)
この城絵図で、かなり特異な形状と言われるのが、表御殿曲輪の西に三角形に張り出した「米蔵曲輪」です。
この曲輪はなかなか確定した呼称が無いため、松岡利郎先生の「米蔵曲輪」を使用しますが、ここの主たる目的が、表御殿に付随した「兵の勢溜り(せだまり)」であろうことは衆目の一致するところです。
例えば櫻井成廣先生が「籠城の際には守備兵の屯集所として必要な空地であったろう」(『豊臣秀吉の居城 大阪城編』)と評したように、城主が兵に檄(げき)を飛ばすような場面においても、「西向きの表御殿のすぐ西に勢溜り」というレイアウトは重要だったのかもしれません。
そんなことを思った時、ふと気づいたのは、下図のような驚くべき相似形が『本丸図』に隠れていたことなのです。
なんと、表御殿の殿舎の形は、山里曲輪の東半分にピッタリ納まるのではないか…
しかも、どちらの西側にも勢溜りがちゃんと配置されているではないか…
この相似形は果たして何を物語っているのか、と。
ジョーダンじゃない!という罵声が聞こえそうですが、実際のところ、この仮説のために歴史的事象にそぐわぬ問題点が発生することは殆ど無いのです。
では早速、敷地の面積や形状から、この仮説が本当に可能なのかどうか、図上演習でご確認いただきましょう。
ご覧の表御殿の殿舎は、ほぼ宮上茂隆先生の復元をそのまま描いたものですが、『本丸図』に示された石垣の間数に対しても、ほとんど無理なくスッポリ納まることがお判りでしょう。
ただし「御座ノ間」は、御殿群の北東寄りではなく東側にあったものと考え、それはちょうど姫路城の天守下の(池田輝政の居館跡と言われる)備前丸の「御対面所」が、石垣の縁に建てられたのと似たような立地だと想定しています。
さらに文献の様々な記録に照らしてみますと、例えば『吉田兼見卿記』に、天正15年の大坂城訪問のおりに「天守下の御殿」で酒宴が催された、という記録があります。
この「天守下」は、櫻井先生が“男子禁制の奥御殿ではありえないから”とおっしゃったように、やはり山里曲輪の側の「天守下」のことだと思われ、今回の仮説ならば、移築前の表御殿のおびただしい部屋のいずれでも酒宴を催すことは可能です。
また逆に、島津義弘や毛利輝元、小早川隆景などの諸将が、山里の茶室で秀吉が直々に点てた茶を飲んだ、という記録は色々とありますが、それらの茶室が“絶対に山里曲輪の場所でなくてはならない”と断言できるほどの史料は無いのです。
例えば、著書『茶人 豊臣秀吉』がある陶磁器の権威・矢部良明先生は、その状況をうかがわせるように、こう書いておられます。
そこで『宇野主水記』(うのもんどき)を確認してみますと、
「天主又女中ノ御入候御ウヘ御納戸迄御自身御案内者ニテ」
と秀吉自身が奥御殿を色々と案内したことは分かるものの、肝心の茶席のくだりは…
「廿八日朝御茶湯三畳敷青楸(あおかえで)ノ絵カケラレ初花クタツキ拝見候ニテ」
と、茶室の大きさや道具の話があるだけで、そこが本当に山里曲輪だったのか否かは皆目、分からないのです。
これは豪商で茶人の神谷宗湛の『宗湛会記』でも、茶室周辺の描写はより詳しく、「山里の御数寄屋」という言葉があって、(井戸よりはずっと大きい)建物が確実にあったことは分かるものの、それが山里曲輪でなければ不合理と言えるような表現は無いのです。
では考古学的にみて今回の仮説はどこまで可能性があるのか、という観点で、過去に行われた山里曲輪の発掘状況を確認しておきましょう。
1929年(昭和4年!)の調査で、二代目・豊臣秀頼が建てた豊国廟の社殿や参道の跡が(ちょうど豊臣時代の天守台のすぐ下あたりで)見つかりました。
しかしそれ以外については、もっと存在が確実なはずの江戸時代の加番大名の役屋敷さえ、礎石等がまとまって見つかったという話を聞きません。
加番屋敷は幕末の城絵図にもあり、鳥羽伏見の戦い直後の大火災で焼けたようですが、明治以後、昭和4年の公園整備まで山里曲輪は空地だったらしく、そうなると、火災後の焼け跡整理(大阪鎮台の設置にまつわる準備作業)がいちばん“怪しい”のかもしれません。
いずれにしても山里曲輪もその昔、徳川幕府がそうとうに盛り土をした伝説があり、豊臣時代の遺構は殆ど土中に埋まったままのようです。
そうした中で2010年の「石組み溝」の発掘は重大な情報を含んでいて、その深さからみて、山里曲輪の全域を2〜4mは掘り返さないと豊臣時代の全貌は見えて来ない、という無理難題を突きつけられた形です。
しかし今回の仮説で、はっきりと見えて来るのは、秀吉は旧主・織田信長の作法どおりに築城していたことでしょう。
従来、秀吉はなぜ天守を詰ノ丸奥御殿の「鬼門」北東の隅に建てたのか… と何度となく疑問が投げかけられましたが、ご覧のように北(図では下)から見れば、天守はちゃんと詰ノ丸(「奥」)の左手前隅角に屹立していたわけです。
秀吉はおそらく、一にも二にも、この形を示したかったのであり、これが「信長の作法」を受け継いだスタイルであることは、当ブログ(→参考記事1 記事2)で度々申し上げたとおりです。
さて、秀吉の動機という点では、より大きな疑問として、どうして大坂城を大胆に見直す結果になったのでしょうか。
その決定的な動機としては、秀頼のことがあったように思われます。
ご承知のように秀吉は死の三ヶ月前になって、伏見の諸大名屋敷を大坂に移転すべく、「大坂町中屋敷替」を命じて町屋を(船場に)移し、三ノ丸の大規模な拡張工事を始めました。
この工事は当時5歳の秀頼を守る体制固めだったようですが、そのため大名屋敷は(城の裏手の)南と西に大きく広がることになり、今回の仮説では、このアンバランスが城の大手口を南に変更させたものと思われます。
死期を悟った秀吉の心理としては、秀頼の行く末は諸大名の臣従いかんに懸かっていた中で、もはや大手口を北に向けている場合ではなかったのでしょう。
ここまで『本丸図』は、秀吉最晩年の大坂大改造にともなう絵図ではなかったか、という仮説を申し上げて来ました。
改めてこの絵図の目的を申しますと、第一には、【表御殿の移築を中心とする諸殿舎の計画図】であり、加えて、【石垣の張り替えを行う見積用の測量図】を兼ねていたのではないでしょうか。
ここで唐突に“石垣の張り替え”と申しましたのは、『本丸図』の石垣におびただしい間数や高さの書き込みがあるため(…これほどの城絵図は他にありません!)ですが、もう一つには、『大坂冬の陣図屏風』の石垣の表現についてこんな指摘もあったからです。
ご覧の『大坂冬の陣図屏風』はそもそも、失われてしまった原画の「下絵」か「模本」だそうですから、そこにかすかであれ「亀甲積み」がスケッチされているのは、城郭ファンとして、どうにも見逃せません。
しかも「本丸の北面の一部」とは、まさに『本丸図』におびただしい間数の書き込みがある一部分に該当するわけで、これは、本当にどこまで亀甲積みが施されたのかと、想像するだけで胸騒ぎを覚えてしまう一件です。
以上の結論としまして、中井家蔵『本丸図』とは、豊臣大坂城が二代目・秀頼の御代を迎えるために計画した、歴史的な化粧直しの青写真だったのかもしれないのです。
ここに列挙した「工程の仮説」は、誠に恐縮ながら、次回のブログ記事から順次ご紹介してまいります。ご期待下さい。
秀吉が画策したと言われる大坂遷都計画は、本多忠勝の天正11年の書状にある、
「只今は大坂ニ普請仕られ候、来春は京都をも大坂に引き取るべきの由候」
という文面から、天正12年の春、すなわち築城工事が始まって半年ほどの、前述「山里の御座敷開」きの直後には行うつもりだったようです。
もしも図のような場所に内裏が移転したなら、そこから眺めた城の姿は、まさに『大坂冬の陣図屏風』等と同じ北西からの視点になり、内田説の信憑性の高さが感じられます。
ただし、これを軍事的な観点から見ますと、内裏は大川の対岸になってしまい、のちに築かれた惣構堀の外側にも当たるため、防御上はかなりの不安を残すようにも見えます。
そのあたりの説明は上記の論考にありませんが、このまま内田先生の「天満」説に立つとすると、そこには或る重大な政治的思惑が秘められていた疑いがありそうです。
北京の観光スポットとしても知られる「天壇」は、中国歴代王朝の皇帝たちが、自らの治世を天地に祈る最高儀礼を行うための祭壇でした。
霊山の山頂で行った「封禅」に対し、都城の郊外で行った「郊祀」のための祭壇であり、唯一現存するのが北京の天壇です。
北京の天壇と豊臣大坂城/この図も上が北
(※両者の図の縮尺は異なる。天壇の広さは豊臣大坂城の三ノ丸までを上回る)
天壇は「天円地方」の形、つまり天は円形で、地は方形である、という中国古来の宇宙観によるデザインですが、右の大坂城まで、どこか似たような形に見えるのは何故でしょう。
(※ちなみに、大阪城の本丸は古代には前方後円墳だったかもしれない、という指摘も過去にありましたが、それならば前方後円墳の形とはそもそも何だったのか、という問題も惹起されるのかもしれません)
そして秀吉が大坂築城を始めた頃の北京は、ご覧のような構造であり、こうして両者を見比べますと、おのずと関連性が疑われてしかるべきではないのでしょうか…。
従来は秀吉による大坂城の選地と言えば、もっぱら南の商都・堺との連絡などが中心的な話題でしたが、大手が「北」であった疑いが浮上している現在、こうした新たな視点が必要のように思われます。
例えば秀吉以前の、織田信長の大坂築城構想は中身がよく分かりませんが、信長も、秀吉の朝鮮出兵と同様に、船団を組んで大陸遠征に出たいとの願望を宣教師に語りました。
彼らがそれほどまでに望んだのは、A・リードが著書『商業の時代』で示したような、実はアジアが台風の目だった大交易時代の波に乗ることであり、寧波(ニンポー)など主要な港を押さえて(つまり武力で“開港”させて)、アジアの海洋覇権を奪取することだったのかもしれません。
そうした中で、後継者・秀吉による大坂築城と遷都計画が、今回の仮説のごとく、北京にならうようなプランを持っていたとしたら、その真意は何だったのでしょう…。
明帝国の力を「長袖国」などとあなどっていた秀吉のことですから、おそらく内心は、北京にならうどころか、いつの間にか取って代わるつもりだった(!)、という狡猾な打算が見え隠れしているように感じられてなりません。
その意味では、大坂の城と御所が近距離で配置されて、北京よりはるかにコンパクトに計画されたのは、そこまでの工事の素早さを狙ったものではないのかと、さらに邪推が深まるのです。
結局のところ、朝鮮出兵が失敗に終わったことと同様に、秀吉にいく分の認識不足があったとしても、この時点で、秀吉の頭には、大坂を北京に替わる(もしくは北京と寧波を合わせたような)東アジアの海洋覇権国家の首都に育て上げたい、といった野心が芽生えていたはず… とここで申し上げてしまうのは言い過ぎでしょうか。
必ずしも言い過ぎではなく、有名な秀吉の辞世の句「なにわの事も ゆめの又ゆめ」が実際に詠まれたのは、大坂への遷都を断念した後の、聚楽第の完成披露の席だったことを思うと、「難波の事」とはまさにそのことではなかったのか、と思われてならないのです。
秀吉が画策していた遷都計画は、天正11年の後半のうちに事態が急展開したようです。
【天正11年】
9月 大坂築城が天守台の石垣普請から始まる
9月15日 本多忠勝の書状、秀吉の遷都計画について触れる
11月 天守台の石垣工事、完了する
11月15日 天満の造成工事、完了する
12月18日 フロイスの書簡、朝廷が遷都に難色を示した旨を報告する
大坂では着々と準備が進み、吉報を待っていた所へ、朝廷から難色を伝える返事が届いたことが分かります。その前後の築城過程について『天正記(柴田退治記)』はこう伝えています。
「唯今成す所の大坂の普請は、先づ天守の土台也。其高さ莫大にて、四方八角、白壁翠屏の如し」
真っ先に天守台を築いたものの、その上には結局、揺れ動いた政治動向の末に「丈間の天守」、秀吉の官位を誇示する「関白太政大臣の天守」が建つことになったのです。
しかもその中層階は「十字形八角平面」(→参考記事)だったはずで、上の文献は、それを極めて的確に「四方八角」と伝えています。
『大坂図屏風』の描写によれば、その壁面は「軍神」八幡神の神紋で埋め尽くされていて、それは人々の脳裏に、いにしえの神功皇后の三韓征伐伝説を想起させるものでした。
かくして、信長が語った大陸遠征の願望は、黄金の輝きで人心をまどわす秀吉のもとで、古今に比類なき「見せる天守」に化けて姿を現したのです。