2009緊急リポート

新解釈による『天守指図』復元案

―安土城天主は白壁の光り輝く天守だった―


イメージ01
シャルヴォア『日本史』で欧州に「純金の冠」と伝えられた最上階七重目

<作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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第1弾リポート「豊臣秀頼の大坂城再建天守」     2008冬季リポート「秀吉の大坂城・前篇」

ブログ「城の再発見!天守が建てられた本当の理由」

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映画
東映配給 『火天の城』/指図争いで自説の正しさを主張する岡部又右衛門(西田敏行)

2009年は映画『火天の城』が公開されました。(9月12日)
この作品は、織田信長の安土城天主を建てた大工棟梁・岡部又右衛門を主人公とする物語を、故・宮上茂隆先生の復元にもとづく天主を映像化しつつ描いたものです。

日本映画史上、ここまで「城」、とりわけ「天守」の建造をテーマにした作品は無かったわけで、これは城に対する社会的な関心度を示すバロメーターなのかもしれません。

そこで当サイトでは、(作業が遅れに遅れている2009夏季リポートに替えまして)安土城天主の緊急リポートをご覧いただこうと存じます。
2009年はブログ記事でも安土城天主を集中的に取り上げましたが、今回の緊急リポートはテーマを「外壁の色」に絞り、前半を『天守指図』新解釈を総括したブログ記事のダイジェスト、後半を天主の外壁の「色彩」問題という形でお伝えしたいと存じます。


『天守指図』の新解釈とは



静嘉堂文庫蔵 『天守指図』 /安土城天主とされた七重の平面図

今から40年前、内藤昌先生が論文とともに世に示した『天守指図』は、実は“新解釈”が可能であり、かつ有意義であることを、ブログで様々に申し上げてきました。

40年前の内藤先生の解釈では、『天守指図』とは、加賀藩伝来の資料(安土城天主の指図に属する「原資料」/これの存在は故・宮上茂隆先生も是認)を、江戸中期に藩の作事奉行・池上右平が「影写」したものとされました。

それに対して、“新解釈”とは、『天守指図』は残念ながら原資料をそのまま影写したものではなく、かなりの規模で池上右平が“加筆”してしまった結果ではないか、という仮説を主体にしています。

池上右平による加筆は、ご覧のとおり、おそらく『天守指図』七重分の半分以上に及び、原資料にほぼ忠実な図は計三重分(しかも線だけ)であり、文字の書き込みは殆どが加筆であったと思われるのです。(※理由は後述)

これほど大規模な加筆が行われた原因(動機)としては、そもそも原資料には七重分の図が揃っていなかったことが推測され、そうした原資料を手にした池上右平の先走り(功名心)が、行動を後押ししたように感じられます。

そこで当サイトでは、その加筆を『天守指図』から“除去”する作業として“新解釈”を行ったところ、その中から、いくつもの画期的な知見が得られたのです。



知見1.安土城天主は秀吉の大坂城天守と“相似形”の初層平面をしていた



(→詳細はブログ記事「安土城と大坂城の天守も相似形だった!?」参照)

左側の図は『天守指図』の二重目(天主台上の初層)で、本来の墨書だけですと、不等辺八角形の天主台いっぱいに天主が建てられたかのように描いています。
しかし、これは池上右平による原資料の「線」の読み違えであると解釈し直しますと、図の色づけのとおり、信長の安土城天主は、実は後継者・豊臣秀吉の大坂城天守(右側)と“相似形”の平面プランであった可能性が浮上します。

色づけした両者は、ともに付櫓が東と北に張り出していて、しかも東の付櫓には出入口があり、北の付櫓はおそらく蔵であった点も共通しています。
さらに、それらの付櫓を除いた天主本体は、同じ11間×12間であって、基本的な平面プランがしっかりと踏襲されています。


したがって安土城天主も、秀吉の大坂城天守と同じく、天主台上に空き地がめぐっていたことになり、それは北側の蔵への搬入路や庭(空中庭園)など、場所ごとに様々な用途を与えられていたことが推測されるのです。



(→詳細はブログ記事「続報・安土城と大坂城の天守も相似形」参照)



知見2.重要文献は天主台の南北と東西の寸法を“逆に”伝えてきた


安土城研究にとって、天主台の広さは、長年にわたる謎でした。

と申しますのは、『信長記』『信長公記』類の安土御天主之次第において「二重 石くらの上 廣さ北南へ廿間 東西へ十七間」と伝えられて来たものの、実際の遺構はほとんど合致せず、特に南北の寸法は20間(京間で約39m)に到底及びません。
安土城研究における重要文献『信長記』『信長公記』類に、このような解読不能の数値があるため、長年、謎とされて来たのです。


(→詳細はブログ記事「さらに続報・安土城と大坂城の天守は…」参照)

ところが図のように、『天守指図』の新解釈によって、天主台上に空き地(薄紫色の部分)がめぐっていたと考えますと、現状の遺構のままでも、礎石どおりの七尺間で「南北17間×東西20間」と計測することが出来ます。

つまり「17」と「20」の数値が逆だったのであり、『信長記』『信長公記』類は成立以来400年間、天主台の南北と東西の寸法を逆に伝えて来たのかもしれないのです。



知見3.太田牛一は天主の「高さ十二間余の蔵」を重要文献に明記していた


やはり長年、大きな謎とされて来たのが、安土御天主之次第の冒頭一行目に掲げられた「石くら乃高さ十二間余」という記述です。

何故なら、「石くら」を現在のように「天主台石垣」と解釈していますと、実際の天主台跡には「高さ十二間余」(京間で約24m)という壮大な高石垣は、とても物理的に納まらない、という矛盾を抱えてしまいます。


滋賀県の調査報告書より作図 (赤ラインは『天守指図』新解釈の天主台)

ところが同じ安土御天主之次第でも、江戸時代の写本『安土記』の中では、問題の一行目が「石くら乃高さ十二間余」ではなく、「右 蔵ノ高サ十二間余」となっています。



『安土記』 (滋賀県立安土城考古博物館蔵/部分)

この「右」は、右側のタイトル行の「安土御天主」を指すと考える以外ないため、意味は「安土御天主」の「蔵」が「高サ十二間余」だと言っていることになり、少なくとも、先程の矛盾からは開放されることになります。


(→詳細はブログ記事「安土城天主の二大迷宮を解く!!」参照)

一方、前述の『天守指図』に基づく内藤昌先生の復元は、天主中心部に「巨大な吹き抜け空間」があったとして、大きな話題になりました。
が、やがて建築的な強度について否定的な意見が相次ぎ、また巨大な吹き抜け空間は「どの文献にも登場しない」ことが最大のネックとして浮上しました。


静嘉堂文庫蔵『天守指図』の三重目

そうした中、『天守指図』の新解釈では、池上右平の書き込み「ふたい(舞台)」等は除去されますので、天主中心部の広い区画は「巨大な吹き抜け空間」ではなく、『安土記』が伝えたとおり、天主内部に組み込まれた「高サ十二間余の蔵」の各階の床面であると解釈できるのです。

すなわち『信長記』『信長公記』類の作者・太田牛一は、自筆の文献では「石くら乃高さ十二間余」と書いたのですが、これは言わば“言葉足らずのフライング”であって、牛一が真に言わんとしたことは、まさに没後の江戸中期に“訂正”流布された「右 蔵ノ高サ十二間余」ではなかったのか、と申し上げたいのです。

そうした新解釈の結果、『天守指図』は、文献にない巨大な吹き抜け空間という最大のネックが解消され、しかも安土御天主之次第の「矛盾」を解くカギも、問題の一行目に隠れていた(牛一は“言葉足らずに”明記していた)ことが判るのです。


(→詳細はブログ記事「それは文献史料の冒頭に明記されていた」参照)


小松城の天守「本丸御櫓」復元アイソメ図

さて、それでも唯一残る疑問は、安土御天主之次第のもっともオリジナルな史料(信長の重臣・村井貞勝の天主拝見記)を含むとされる『安土日記』にだけ、「石くら乃高さ十二間余」という記述そのものが無く、つまり「高サ十二間余の蔵」が無いのは何故かという点です。

その答えのヒントになりそうなのが、小松城の実質的な天守「本丸御櫓」の奇妙な構造です。
この建物は、もとは安土城の普請奉行を務めた丹羽長秀の子・長重の天守という伝来のあったものですが、その内部は、図の色分けのように「三系統の登閣路」で完全に分離した構造になっています。

これがもし安土城天主の影響としますと、例えば下図のように、天主中心部の「蔵」は周囲の「居室」と完全に分離した構造とも考えられ、そうであるなら、村井貞勝らは「居室」空間だけを昇り降りしたため、「高サ十二間余の蔵」を(例え薄々気づいても)全く見ることが出来なかったのかもしれません。


※その傍証として、『安土日記』は天主台内部の石蔵についても、“その存在さえ示してない”という不思議な一面があり、これは村井貞勝らが「蔵」周辺の立ち入りを、一切シャットアウトされた可能性を物語っています。
(→後半のキーポイント!)

となると、この「蔵」は信長の“秘中の秘”であったことになり、逆にそれだからこそ、信長の死後になって、太田牛一はいきなり冒頭一行目にこれを掲げたのかもしれません。


(→詳細はブログ記事「実在したもう一つの吹き抜け」参照)


知見4.信長は正倉院宝物を根こそぎ安土城天主に収蔵するつもりだったのではないか


では何故、信長はそのような「蔵」を密かに造ったのか?という問題にイマジネーションを働かせますと、まず信長が正倉院宝物の「蘭奢待(らんじゃたい/天下一と言われた香木)」を強引に切り取らせた、有名な逸話(安土築城の2年前のこと)が思い浮かびます。

正倉院宝物は言わば「天下人」だけが手にできる、真の権力者の証明でもあったわけですが、注目すべき事実として、信長は正倉院近くの多聞山城に蘭奢待を運ばせ、切り取りを済ませた後に、しばらくすると正倉院宝庫に自ら出向き、北倉・中倉・南倉の三つをすべて開けさせ、中を見て回ったという一件があります。

正倉院の宝物は唐櫃(からびつ)に入れてあったため、倉の中はただ唐櫃の類が並んでいただけですが、それでも信長は、たまたま鍵が手元に無かった南倉まで、扉の錠前を鍛冶屋に壊させて中に入ったそうです。


正倉院宝庫 平面の模式図(単位:尺)

この信長の不思議な行動の“動機”を推理しつつ、ためしに正倉院宝庫の床面積と、安土城天主の「蔵」の床面積を比べてみますと、驚くべき一致が判明します。


(→詳細はブログ記事「戦慄!天主の「蔵」は正倉院と同じ床面積だった」参照)

正倉院宝庫は内部が二階建てですが、その一階分の収蔵スペースの合計と、安土城の「蔵」スペースの三階分の合計は、なんと面積の差が2.5平方尺、座布団一枚分しか違わないのです。

となると、例えば安土城天主の「蔵」が各階に中二階を設けていたなら、合計の床面積は正倉院宝庫とまったく同じ規模になり、まさにそのように安土城天主は計画された(!)と考えることも可能なのです。


(→詳細はブログ記事「正倉院宝物が根こそぎ安土城天主に運び込まれるとき」参照)

信長は、正倉院宝物を根こそぎ、安土城天主の「高さ十二間余の蔵」に収蔵するつもりだったのではないか?
言葉を換えますと、そのように我が国の“歴史”を横取りすることで、信長は軍事的な支配圏の拡大や、総見寺建立に見られる宗教的な支配への願望とともに、自らを“歴史の支配者”としても位置づけるため、考案した巨大な装置―― それが安土城天主だったのではないか、とも思われてならないのです。

上の図は(左が正倉院宝庫の断面で)右が「蔵」と上層部分だけを透視図のように示した図ですが、こうしてみますと、安土城天主とは、正倉院宝物のはるか上の七重目(「御座敷」)に、信長自身が座する形を建築的に企図していたようにも見えます。
これはまさに「超越者の立場の顕示」をねらったもので、もともと政治的要素の強いはずの天守が、七重という高層化を始めた具体的な動機が、ここに潜んでいるように思われます。


(→詳細はブログ記事「映画に登場した天主「心柱」の失われた?歴史」参照)


知見5.安土城天主の構造に八角円堂は存在しなかった


上の天主の図に、城郭ファンおなじみの「八角の段」、正八角形の六重目が無い点にお気づきのことでしょう。その六重目の形状についての記録は、安土御天主之次第に「六重め八角四間程有」と書かれているだけです。

中世住宅の研究では、「間(ま)」は広さを示す単位でもあって、現在の「坪」と同義語であったことは、野地修左先生以来の定説です。現に、安土御天主之次第の四重目にも同じ「間」の用例がちゃんとあって、本来ならば、六重目も「八角で4坪ほどあり」と読み解くべきです。

ところが「八角」という興味深い言葉に引きずられて、正八角形の八角円堂を採り入れるため、「間」の原則を無視した復元が次々と現れたころ、日本の城郭研究のパイオニア・城戸久先生がこう発言しました。


安土城天守を除いて、八角形の上層部分をもった天守は、いまだかつて伝えられていないし、そのようなものは、今までに認められていない。
もし、まことに安土城天守の上層部が八角平面であったとすれば、後世、どこかで、だれかが模倣してもよいはずである。それを範としたと考えられる秀吉の大坂城天守においては、なおさらのことである。

(城戸久『城と民家』1972)

こうした中、『天守指図』の新解釈では、問題の八角円堂ではなく、まさに「4坪ほどあり」という文献どおりの規模で、六重目を復元することが出来ます。

この『天守指図』の五重目の図は、屋根裏階である五重目の中央部分(青い線の範囲)が、ちょうど八つ角の出た十字形の平面で高く建ち上がり、その中に階段や吹き抜け(五重目から2階分)を設け、その脇を面積「4坪」の回廊である六重目が通り、吹き抜けの真上にある七重目に向かう形になっていたことを示しています。


(→詳細はブログ記事「たった4坪だった?安土城天主の六重目」  ブログ記事「安土城天主に八角円堂は無かった!」参照)

同様に角が八つある十字形の建築は、「眺望」に適した楼閣のデザインとして、古くから中国大陸で数多く見られたことは、ブログで様々に申し上げました。
バルコニーのように突出した「抱廈(ほうか)」が日本の天守に導入され、やがて望楼型天守の「張り出し」構造となって全国に普及した原点は、まさに安土城天主だったのかもしれません。

(※当サイトではこの形を仮に「十字形八角平面」と呼んでいます。)



岳陽楼図(原在照筆/京都御所 御学問所)



(→詳細はブログ記事「図解!安土城天主に八角円堂は無かった」参照)




外観上の問題提起――
安土城天主は本当に《黒い天主》だったのか??



昭和初期の土屋純一博士以来、数々の復元が行われて来ましたが、その多くが黒い下見板の「黒い天主」とされて来ました。これはひとえに、安土御天主之次第のもっともオリジナルな史料を含む『安土日記』において、


御天主ハ七重 悉黒漆也 御絵所皆金也 高サ十六間々中 …


というふうに天主の説明が始まる中に、「悉黒漆也」(ことごとく くろうるし なり)とあることが一つの理由です。

しかしその逆を申しますと、他のあらゆる関連の文献(国内から宣教師等)を見ても、安土城天主が“黒い外壁だった”可能性を示す記述は、実は、それ以外に一箇所たりともありません。
むしろ正反対に、「白く輝いていた」という宣教師の報告さえあるほどです。


壁は頂上の階の金色と青色を塗りたる他は、悉く外部甚だ白く、太陽反射して驚くべき光輝を発せり。

(『耶蘇会士 日本通信』 村上直次郎訳)

先程の「黒漆」とは真っ向からバッティングしてしまうこの報告。ところが「外部(がいぶ)甚(はなは)だ白く」という部分は、ひょっとして「黒漆」の方は天主内部の話ではないのか!?…という疑念を引き起こすものです。



確認できる初期の天守はどれも意外に白壁!


しかも、あらゆる文献や絵画史料で“外壁の色”が確認できる初期の天守は、どれも白壁ばかり、という意外な事実があります。

例えば、天守の歴史で最も早い部類に入る多聞山城は、永禄8年(1565年)の宣教師の訪問記で「壁のところは、私がかつてキリスト教国で見たことがないほど、白く明るく輝いて」(『フロイス日本史』)いたとあり、また秀吉時代の姫路城天守も、細川藤孝が姫路沖の舟から綺麗な天守が見えたと『道之記』に書いていて、白壁の存在を感じさせます。

そして当サイトは、天正13年(1585年)完成の大坂城天守は「大坂夏の陣図屏風」のような黒い天守ではなかったことを申し上げていて、その後に色彩が確認できるのは「聚楽第図屏風」「肥前名護屋城図屏風」の白い天守が続き、石垣山城天守も、小田原攻め在陣中(天正18年)の榊原家政の手紙に「天主矢倉は白壁が天を輝し」とあるそうです。

そんな中、ようやく黒壁を使った天守が確認できるのは、慶長2〜3年頃(1597〜98年)に完成した岡山城天守、高島城天守、広島城天守で、かつて現存中最古とされた黒い犬山城天守や丸岡城天守も、かなり時代が下る可能性が言われています。

つまり永禄8年の多聞山城から、黒壁の天守が確認できる慶長2〜3年まで、約30年間(天守の黎明期)を通じて、外壁の色が確認できる天守は、どれも、これも、白壁なのです。



城の白壁も「中世寺院の技術」を導入したものではないのか


山科本願寺・寺内町研究会編『戦国の寺・城・まち』1998

初期の天守が白壁を備えた直接の原因として考えられるのが、近年、城郭研究で注目されつつある「中世寺院の技術」です。例えば、織豊期城郭研究会の中井均先生は、安土城で初めて総石垣や、七重天主や、瓦葺き屋根が大々的に使われたことを挙げて、こう発言されています。


では、そういったものが信長のオリジナリティであったのかどうかというのが非常に問題になるわけです。
瓦に関しましては『信長公記』のなかで「瓦、唐人の一観に仰付けられ、奈良衆焼き申すなり」というふうに書かれております。
当時、社寺に使われる瓦を大量生産しておりました奈良の瓦師に焼かせているわけです。
さらに天主を築いた大工は、熱田神宮(名古屋市)の宮大工岡部又右衛門です。
(中略)
そういった人々のほとんどが中世の社寺に隷属すると言いますか、社寺造営にかかわった工人集団であるというのがわかるわけです。
それまでの城郭にそういうものを使わなかったというだけでして、十分に安土城を作り上げる素地というのは中世の社寺でできあがっていたわけです。
ですから、寺院から受けた影響というのは非常に城郭の場合は大きいということが安土城でわかるわけです。


(『戦国の寺・城・まち』1998所収/中井均「戦国の城・山科本願寺」)

こうした文脈で考えるなら、天守も、まずは寺院の「白壁」を採りいれたスタイルから出発して、「初めは白かった」と見た方が、ずっと自然で、整合性があるように思われます。

そしてその後に、黒い天守が全国的に普及したのは、(柿渋の黒壁や集成材の柱による松江城天守のごとく)主に現地の大名が抱えた経済的理由によるのかもしれません。
ですから、江戸時代に再び「白亜の城」が(漆喰のコストダウンで)全盛期を迎えるに至った歴史的な変遷を、ここはじっくりと見つめ直すべき時期に来ているのではないでしょうか。



「悉く黒漆なり」は天主内部の話――
単純な国語の問題? それともパズルの問題!?


一方、この問題の焦点である『安土日記』の「御天主ハ七重 悉黒漆也」は、ヘエッ?というコロンブスの卵のように読み解くことも出来ます。

考えてみれば当たり前のことですが、ここで「七重」にカウントされている一重目(最下重)は、ぶ厚い天主台石垣の石蔵の中にあって、外からはまるで見えず、そもそも壁面などありません。
つまり『安土日記』は、外から見えない一重目を含む「七重」が、ことごとく黒漆だ、と言っているわけです。

したがって当然、ここで言う「七重」とは、外から見えない場所の話、すなわち天主内部のことなのだ……
――これは小学生でも分かる、単純な国語の問題だったのではないでしょうか??

なぜ今まで指摘されなかったのか不思議ですが、「御天主ハ七重 悉黒漆也」は、そんな風にちょっと考えれば、論理的な落し穴のあることが判ります。


天主台跡の石蔵入口

ただ唯一、可能性として残るのは、石蔵入口の部分に天主の門や壁面が設けられていた場合、後の天守によく見られる「鉄板張り」が施され、そこに黒漆が塗られたケースは大いにありうるでしょう。

その場合、石蔵入口を一重目の「壁」とカウントして、「七重 悉く黒漆」と言うことが出来ます。村井貞勝もそのようにして「上から下まで黒漆」と判定したのかもしれません。



ところが――
この問題はそう単純ではなく、逆に、パズルのような複雑さが潜んでいることをお伝えしたいのです。

何故なら(前述のように)村井貞勝らは石蔵の内部を見ていない(見ることを許されなかった)可能性があり、そこが「土間」であることを知らずに、普通の黒漆の部屋があると思い込んで、勝手に「悉く黒漆」と判定したのかもしれないからです。


では、その「石蔵の存在さえ示していない」という文面をご覧いただきますが、『安土日記』では他の『信長記』類とは階数の数え方が、上下が逆になり、最下重の石蔵を「七重目」と書いている点にご注意下さい。

(全体は最上階の上一重から説明が始まり、ずっと下って六重目の途中まで来たところで〜)


西六てう敷
次十七てう敷
又其次十畳敷
同十二畳敷
御なんとの数七ツ
此下ニ金灯爐つらせられ候
七重目
以上 柱数二百四本 本柱長さ八間
本柱ふとさ一尺五寸四方 六寸四方
一尺三寸四方木

なんと、最下重は「七重目」と、たった一語しか記述が無く、単に「その階もあります」としか伝えていないのです。

これはやはり、彼らは「七重目(石蔵)の内部を見ていないのだ…」と疑わざるをえない状況です。

もし彼らが「石蔵」の中を見ていたのなら、それまでの部屋の様子とは相当に違うわけですから、そのように記すか、少なくとも三重目(下から五重目)のように「三重目 御絵ハなし」程度の記載はできたはずで、それさえも無いということは、やはり内部を見せてもらえず、ただ「七重目」と書くしかなかったのでしょう。



ということは、彼らは『天守指図』にある二重目入口から天主に入り、「居室」空間だけを昇り降りして拝見し、帰りも二重目から外に出て、最後に石蔵入口の(黒漆の?)扉を外から眺めただけで、「七重 悉く黒漆」と書いてしまった、というストーリーが浮上してくるように思われます。

では実際の石蔵内部はどうかと申しますと、ご承知のとおり、大ぶりな礎石が1間ごとにびっしりと並べられています。



遺跡からは、天主地階は叩き漆喰の土間に一間毎に太い柱の林立する床下のような空間であったと考えられる

(宮上茂隆『国華』998号「安土城天主の復原とその史料に就いて」)


前述の宮上先生はこのように書いていて、すぐ上の階までは「御座敷内外柱」すべてに黒漆を塗ったという信長も、さすがにこの「床下のような空間」の柱や梁にまで、“黒漆を塗れ”とは命じなかったことでしょう。

村井貞勝にしても、そんな石蔵内を本当に見たなら(仮に入口扉に多少の黒漆があっても)「七重 悉く黒漆」とは書けなかったようにも思われ、むしろ実際は見ていないからこそ、「この扉の奥もさぞ見事な部屋であろう」という期待と想像から、そう書けてしまったのではないでしょうか?

そうした心理の背景には、もちろん当時、七重の天主は新機軸の建築であって、彼らはまだ「天主の石蔵」を見たことさえ無かった可能性もあり、黒漆と障壁画の印象にすっかり気を取られていたのかもしれません。


壁は頂上の階の金色と青色を塗りたる他は、悉く外部甚だ白く、太陽反射して驚くべき光輝を発せり。

(『耶蘇会士 日本通信』 村上直次郎訳)

先程も申し上げたこの報告の貴重さが際立つ中、全体を総合的に考えますと、やはり「悉く黒漆」だったのは天主内部のこと、と見るのが妥当と思われます。
話題の主・村井貞勝は、“色々あった”上で「七重 悉く黒漆」と書いたことが推理され、先程来のイラストは最終的にこうなるのでしょう。




むしろ不徹底が目につく「黒い天主」復元の数々…


さて、最後に現状の復元について少しだけ申しますと、そもそも重要文献に「七重 悉く黒漆」とありながら、天主の数ある復元の中でも、例えば外壁が上層部分まで黒漆で統一されているのは、故・宮上茂隆先生の復元だけ、という事態はどうしたことでしょうか。


『歴史群像 名城シリーズ3 安土城』/黒漆で統一された宮上案の復元イラスト

その他の復元では、最悪の場合、上層部分は壁の内外を含めてもほとんど黒漆が無い(!)という、どうにも理解に苦しむ復元が、堂々とまかり通っている状況です。

その点、前述の内藤昌先生の復元は、六重目より上の外装には黒漆が無いものの、内部にタップリとあった形になっています。
特に七重目(天主台上の六階)は、安土御天主之次第に「御座敷」とあるのに反して、床一面を黒漆の板張りにしてあって、先生ご自身が <このくらい黒漆塗りの部分が多くなければ、『天守指図』六階冒頭の記述に「いつれもこくしつなり」というはずがない> と著書に記してあるのは、そういう計算か… という“したたかさ”を感じます。(失礼)


内藤案で「信長の館」(安土町)に再現された七重目の内部

やはり、ことごとく黒漆であったのは、あくまで天主内部の事とした方が、実際に内部を昇り降りした村井貞勝の“実感を伝えた一語”として、上出来であるように思われてなりません。

しかも、その『安土日記』の冒頭部分は、


御天主ハ七重 悉黒漆也 御絵所皆金也 高サ十六間々中 …


とあるうちの、最初の「御天主ハ七重 悉黒漆也」をひとつながりで読むのではなく、むしろ次の「悉黒漆也 御絵所皆金也」をひとつながりで読むべきであるかもしれません。つまりこの文面は「重数」「室内意匠」「総高」という要素で、建物の基本情報を述べた部分であるかもしれないからです。

そうした描写はちょうど上の写真のように、黒漆で塗られた天井や柱や床、そして金色の障壁画、ただし「座敷」は畳敷き(!)という配色で、二重目から七重目までの「居室」空間が統一されたことを伝えているのです。



『天守指図』新解釈による安土城天主の外観イメージ


ただいま白壁の光り輝く天主の画像(全景)を作成中です! 出来しだいブログ記事の中でご紹介します。

※2010年10月25日補筆/
 お待たせしました!白い外観の安土城天主、まだ上層部分のみですが、こちらのブログ記事でご覧いただけます。

※さらに補筆!! / 全景の安土城天主イラストは、こちらのブログ記事でご覧いただけます。

※ご参考のため補筆 / 天主の高層部分と「金閣」との類似に関しては、こちらのブログ記事でご覧いただけます。




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