渾身の第1弾リポート

豊臣秀頼の大坂城再建天守 −復元篇−

「君子、虎の上に立つべし」
金色に光り輝く鳥獣の彫物が
倒幕の旗印と化したとき

イメージ4S

作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


新々6

2008冬季リポート「秀吉の大坂城・前篇」     2009緊急リポート「安土城天主は白亜に光り輝く天守だった」

2010年度リポート「秀吉の大坂城・後篇」     2011年度リポート「そして天守は海を越えた」

2012年度リポート「東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守か」     2013−2014年度リポート「最後の立体的御殿としての駿府城天守」

ブログ「城の再発見!天守が建てられた本当の理由」     ブログ全エントリ記事の一覧



当リポートの主な内容
第一部 <唐破風は豊臣秀頼の屈辱の烙印だったか>
第二部 <文献上の数字に表れた秀頼再建天守>
第三部 <豊臣関白家の宿願と悲劇の発火点 物見ノ段>
第四部 <秀頼再建天守はここまで復元できる>



『太閤さま軍記のうち』より

八月四日に若君御誕生と御注進これあり。
そのとき、太閤さまおほせられやうに、
さだめて、拾子にてあるべしとて、
御ひろいさまと、御名をつけられ候

 

第一部

「唐破風」は豊臣秀頼の屈辱の烙印だったか



当リポートの仮説に基づくイラスト 秀頼再建天守/北東側から見上げた様子

 

唐破風の天守と徳川将軍との密接な関係

先ほどご覧いただいた「リポートの前説」でもご紹介したように、豊臣秀吉が創建した大坂城天守は、宣教師が欧州に送った報告書(『日本西教史』)では、慶長元年1596年の地震で倒壊したとも伝えられ、これが本当なのか否かは、大坂城をめぐる「謎の一つ」でした。
この第1弾リポートは、その後に、秀吉の遺児・豊臣秀頼(とよとみのひでより)が自らの豊臣期天守を再建していたことを、色々な角度から検証し、その天守の姿を可能なかぎり明らかにして行きたいと存じます。

では初めに、ご紹介した「最上重に唐破風をもつ天守群」について、いっそう興味深い、三つの建築例をご覧下さい。




上記はいずれも、徳川将軍の、実の娘婿たちの天守です。

まず左の写真ですが、徳川家康の長女・亀姫をめとった大名の奥平信昌が、岐阜の加納城に「御三階」と称された天守に代わる建築を建てました。(慶長8年1603年頃完成) 厳密には天守ではありませんが、これに唐破風のあったことが、遺された絵図からわかっています。

また家康の次女・督姫をめとった池田輝政が築いたのは、世界遺産になった姫路城で、この天守の最上重にも唐破風があります。(慶長14年1609年完成)

そして二代将軍・徳川秀忠の長女・千姫が輿入れしたのが、大坂城の豊臣秀頼でした。輿入れの12年後に大坂冬の陣、夏の陣(慶長20年1615年)が勃発し、その戦闘の様子がそれぞれ屏風に描かれ、『大坂夏の陣図屏風』にこの天守の唐破風が描かれたというわけです。

このように、唐破風を頂に掲げた天守は、徳川将軍との関わりが相当に深い可能性があります。
現に、リポート前説で唐破風の向きを図示した天守群は、いずれも慶長6年以降、すなわち徳川が豊臣から天下の覇権を奪取した「関ヶ原合戦」の翌年以降の完成なのです。



唐破風のある天守の原点(最初例)は…


写真は京都に現存する二条城の天守台です。

二条城は、関ヶ原合戦の勝利で覇権を確立した家康が、上方の本拠地として築城したもので、家康は征夷大将軍に任官のおり、ここから御所に参内しました。
写真の天守台は、築城の25年後に城が拡張された時、二代目の天守が建てられたところです。(※1750年に落雷で焼失)

初代の家康時代の天守をめぐる研究では、例えば宮上茂隆先生の考察でも、松岡利郎先生の淀城天守(二条城天守の移築)をめぐる考察でも、その最上重に「唐破風」のあったことが示されています。
慶長8年1603年の完成と言われ、唐破風のある天守では最も早い時期に成立しました。

ただしリポート前説で図示した天守群では、鳥取県の米子城天守(慶長6年1601年)がいっそう早く、二条城天守に先駆けて完成しています。




この天守は、大名の中村一忠が関ヶ原合戦後、徳川家康の命で伯耆米子17万5000石に移封され、新たに建造した四重五階の天守です。

ということは、建造時期からすると、一忠が参考にできた「家康の天守」はどこにも見当たらないことになります。
しかしこの点に関しては、中村家は移封前、「駿府」を居城としていた点が見逃せません。駿府城は、中村家のその前は、まさに家康の居城だったからです。

ご承知のように家康は、江戸入府前の約3年半(天正14年1586年〜天正18年1590年)は駿府にあり、また大御所として隠居後も駿府を居城とし、そこで没しました。
果たして一度目の駿府時代に、家康が天守を建てたか否かは、『家忠日記』にわずかな記録があるのみですが、まずはこの辺りが、唐破風のある天守の源流をたどる手掛かりではないかと思われるのです。

【Web版に際しての追記 2015年1月】
一連のブログ記事でも申し上げておりますとおり、大和郡山城の天守台における発掘調査の結果、家康の二条城天守は、豊臣秀長が天正13年に大改修した大和郡山城の天守を、そっくりそのまま移築(継承?)した可能性が生じておりまして、そのため「唐破風のある天守の原点」という件については、厳密には、家康が天正16年に城を訪れて目撃し、その後、格別の意図をもって「継承」した大和郡山城天守が最初例であったのかもしれない、という点を追記いたします。



家康の天下掌握を印象づけた
第三の型の天守「唐破風天守」の可能性

ここで当リポートは、天守が望楼型から層塔型に移りかわる過渡期に登場した、言わば第三の型として、仮称「唐破風天守」の可能性を提起させて頂きたいと存じます。
第三の型といっても、それは決して望楼型や層塔型とはっきりと区分できる型ではなく、言わば両者の境目にまたがるようにして、ダブる形で存在した型だと申せましょう。

そしてその発生時期は、まさに徳川家康の天下掌握の頃と重なります。

ここで想像力をたくましくすれば、「唐破風天守」は新たな時代の覇者のトレードマークとなって、全国に普及したということも、大いに考えられるのではないでしょうか。




家康の一代記ともいえる『東照社縁起 仮名絵巻』には、家康死去の場面の直前に、ひときわ大きく唐破風を描いた天守の絵があるのも、この際、ぜひ注目して頂きたい事柄です。
この絵巻は、家康の生前の相談役であった天海大僧正に、幕府が画題の選定を依頼し、家康をまつる日光東照宮に奉納したものです。

そして、この絵巻に描かれた「天守」は、全五巻を通じて、ただこれ一点だけなのです。
家康の生涯を通じて描かれるべき唯一の天守に、大きく唐破風が据えられている。このことに何の作意も無かったと、果たして言い切れるものでしょうか?



唐破風の天守を受け入れた豊臣秀頼

さて、秀吉の生前に交わされたという秀頼と千姫の婚約が、ようやく婚儀に至ったのは慶長8年1603年、家康の征夷大将軍就任から半年あまり後のことでした。
その日、家康に見送られて伏見城を出た千姫の輿は、船に乗りかえて淀川を下り、大坂城を目指したのです。


(橋本政次『千姫考』1990年より)

「輿には大久保相模守忠隣が従い、淀川の両岸のうち、東岸は関西の諸侯が警衛し、西岸は前田中納言利長が守護し、細川越中守忠興は備前島辺を戒めた。また黒田筑前守長政は弓、鉄砲各三百人を率いて警戒し、堀尾信濃守忠氏は人夫三百人に鋤、鍬を持たせて先行し、水路の岩石や障害物を取り除かせた。」
「そして輿が本丸に入ると、浅野紀伊守幸長が玄関に出迎え、大久保忠隣から受け取った。」


このように婚礼の行列を囲んだのは、家康の幕下についた(東軍の)旧豊臣大名の面々であり、嫁ぐ千姫は七歳、秀頼もまだ十一歳でした。
こうした中で、もしも秀頼の天守が再建されたのなら、それがどのようなものになるかは推して知るべしと言えるでしょう。

従来、唐破風は『大坂夏の陣図屏風』の天守の特徴として言及されて来ましたが、以上のような事情から、実際は、秀頼主従の幕府に対する追従(ついしょう)として掲げられた「屈辱的な天守意匠」であった可能性が浮上するのです。



長年の議論を整理しうる秀頼再建天守

さて、ここまで『大坂夏の陣図屏風』の天守が、徳川家康と密接な関係のある天守であり、「秀頼再建天守」である可能性を申し上げて来ました。

結局のところ、『大坂夏の陣図屏風』を第一級の絵画史料と位置づけるかぎり、そこに描かれた唐破風の天守は、慶長期に再建された豊臣の天守であるとみなす以外に、問題解決の道はないのではないでしょうか。

勿論、もしも『大坂夏の陣図屏風』とその天守が「描写に著しく信憑性が欠ける」と断ぜられるならば、このような言及はできず、そもそも当リポートの論述じたいが無用になります。

が、これまで多くの城郭研究者が『大坂夏の陣図屏風』を重要な論拠として取り上げてきた経緯(我が国の城郭研究の歴史)を考えるとき、その努力と論議に一応の決着の道筋をつけるためにも、こうした言及をさせて頂きたいと思うのです。

そしてこの天守が改築ではなく、あえて「再建」と申し上げているのは、第二部以降で詳しくご紹介する建築と意匠の分析をご覧になれば、きっと合点がいくことでしょう。
「…そうは言っても、文献には秀頼の天守再建を示した記録は皆無ではないか」との疑義を感じられる方は、第二部の冒頭の奇妙な数字にご注目下さい。

 

第二部

文献上の数字に表れた秀頼再建天守



釈迦に説法(尺貫法)

明治時代、日本の伝統的な長さの単位が法律で定められた。1間=6尺(約1.818m)1尺=10寸(約0.303m)
しかしそれ以前は、時代や地域、建物の格式などによって、10尺を1間とする「丈間」、7尺を1間とする「七尺間」、
6尺5寸を1間とする「京間」、6尺を1間とする「田舎間」などなど、様々な尺度が使い分けられて来た。

 

『愚子見記』に記された或る奇妙な数字

『愚子見記』は、大工棟梁・平政隆が江戸初期にまとめた建築書で、内藤晶先生の詳細な分析(『愚子見記の研究』1988)があります。『愚子見記』全九冊のうち、第五冊「屋舎城郭」で、幕府直営の天守など城郭建築が解説されています。

実はその記述のなかに、ある奇妙な数字が含まれています。




「一、大坂御殿守 七尺間 十七間 十五間 物見 四間五尺 二間五尺」

この大坂城天守の寸法は、初重が17間×15間とあって、豊臣家の滅亡後に徳川幕府が建造した寛永度大坂城天守の初重と一致します。
しかも、この一文の前後に記された「尾張御殿守」「二條御天守」が、明らかに名古屋城天守や寛永度二条城天守の記述であるため、これも当然のごとく徳川の大坂城天守の記述であろうと理解されて来ました。

しかしその一方で、最上重(「物見」)の4間5尺×2間5尺 !! という数字は、徳川の大坂城天守の最上重(7間×5間)にしては極端に小さく、まったく当てはまらないため、この数字だけが単なる“記述のあやまり”として片づけられて来ました。
現に内藤晶先生の前掲書や『注釈 愚子見記』(1988)でも、この点は、取るに足らない書き誤りとして“黙殺”されています。

ですがこの『愚子見記』の記述が、もしも「秀頼再建 大坂御殿守」のことだったと仮定した場合は、状況が一変してしまうのではないでしょうか。!!…

と申しますのも、当時、豊臣家が居城の天守を再建しようとすれば、他の有力大名の例から見ても、やはり幕府の了解を得たうえでの着工となることでしょう。
また徳川方の文献に「大坂を秀頼に預けおく」といった文言も散見されるように、あえて秀頼も徳川大名の一員として見なしたい、といった幕府の意向も見受けられます。

ですから、当時、秀頼再建天守が千姫の輿入れと政治的に深く関連づけられ、人々に語られたなら、そうした情勢を受けて、平政隆が『愚子見記』にそれをあえて“徳川の天守”として書き加えたとしても、無理からぬこともないように感じるのです。

ただ現状では、そういう経緯をうかがわせる直接的な記録は無いため、当リポートは『愚子見記』の問題の数字に、どれほどの現実味があるのか、検証してみることにします。

すると、驚くべき符合の数々が見いだされるのです。



中井家蔵『本丸図』との度重なる符合



中井家蔵『本丸図』黄堀図(部分) ※当図は上が南

ご覧の『大坂御城小指図』(通称『本丸図』)や『城塞繹史』『諸国古城之図』など、豊臣期大坂城の絵図によれば、天守台の(狭義の)平面規模は、東西が12間(=京間で78尺)、南北が11間(=京間で71尺5寸)となっています。それに加えて、東南(図では左上の)方向に張りだした付櫓のスペースが描かれていますが、その寸法は部分的にしか書き込みがありません。

さらに『大坂冬の陣図屏風』等の描写によって、この天守台の北部(図では下側)の幅3間の武者走りにも(秀吉の時代から)付櫓が張りだしていた可能性が言われています。
ちなみに、この『本丸図』の寸法の書き込みは、六尺五寸間(京間)で記入されたことが、宮上茂隆先生の研究などで明らかになっています。

そうした上で、先の『愚子見記』は、ナゾの天守の初重が七尺間で「17間×15間」であったと伝えているのです。

当リポートは、この17間×15間というナゾの天守は、徳川期の天守の初重とたまたま同じ数値ではあるものの、実は、ご覧の秀吉時代と同じ天守台の上に建てられた「秀頼再建天守」の数値ではないのか… と申し上げたいのです。

何故なら17間×15間(尺に換算すると119尺×105尺)は、ご覧の『本丸図』の天守台全体(付櫓を含む初重全体)のサイズであったと考えますと、次のような模式図が描けてしまうからです。(赤い線が建物の範囲)




作図:横手聡

この図は勿論、『本丸図』のあらゆる寸法の書き込みと矛盾しないものですが、まずは南北の(図では上下方向の)寸法から詳しくご説明しましょう。

狭義の天守台は、朱線で示された南のラインから北のラインまで、南北11間(=京間の換算で71尺5寸)ですので、ここには七尺間では梁間10間(70尺)の建築を建てることが可能です。

この計算では、石垣と建築の間に(71尺5寸−70尺で)1尺5寸ほどの隙間が生じますが、これは福井県の丸岡城天守と同様の腰庇(こしびさし/水切板ともいう)が、その隙間を覆うように初重の周囲をめぐっていた可能性が考えられそうです。







ただし『本丸図』を見ますと、天守台の南西の角(図では右上の角)は、塀と同じ「朱線」で描かれていて、つまりこの辺りの天守の壁面は直接に地面に接し、石垣上に建っていなかったことを示唆しているようです。
ということは、当然、天守台の南側に「腰庇」は必要なく、南北では北側だけに廻っていて、その部分の巾はすなわち「1尺5寸」であったと分かります。
(※模式図のグリーンの部分)
この腰庇をめぐって、思わぬ「符合」が現れるのです。

と申しますのは、天守台北部の幅3間の武者走りには、(秀吉時代を踏襲して)やはり「北付櫓」が張り出していたことが考えられるでしょうし、その北付櫓の寸法を計算してみますと、下図のとおり、ちょっと意外なことが判るからです。

(※念のため付け加えておきますと、リポート前説でご紹介したとおり、『大坂夏の陣図屏風』の天守は南から見た描写ですので、そこに北側の付櫓が見えないのは当然の結果です…)




ご覧のように、武者走りの幅自体は京間で3間(19尺5寸)ですが、これに先ほどの腰庇の1尺5寸を足すと、計21尺となり、ここは七尺間でも、ぴったり3間幅の付櫓を建てることが出来ます。




そして図の「東南付櫓」ですが、南側(図では上側)に張出した分の寸法は『本丸図』に書き込みが無いため、これを仮に2間(七尺間)としてみます。

すると、ここまでの合計で、『愚子見記』の伝える「十五間」(七尺間)に達してしまうのです。

  天守本体の梁間10間+北付櫓3間+東南付櫓2間=15間

あくまで仮説ではありますが、こう考えるなら、再建天守の初重は、付櫓を合わせて南北15間、付櫓をすべて除いた本体が梁間10間(七尺間)の建築として再建された、という解釈の可能性は成り立つわけです。



東西桁行には秀吉の天守に特有の「半間食い違い構造」が浮上

続いて東西の寸法を考えてみます。狭義の天守台は、『本丸図』に東西「十二間」と記されていて、京間の換算で78尺になります。




南北の検討で浮上した巾1尺5寸の腰庇が、ここでは東西両端に二筋あったことが想像できますので、その分を除くと75尺、つまり天守本体の東西(桁行)は七尺間で10間5尺の建物として建てられたという解釈ができるでしょう。

  東西78尺=桁行75尺+腰庇1尺5寸×2
  桁行75尺=10間5尺(七尺間)

ここで「5尺」という半端な数字が出ましたが、これは秀吉の天守に特有であった柱間の構造「半間食い違い構造」に由来するものではないでしょうか。




「半間食い違い構造」とは、姫路城の発掘で出土した秀吉時代の旧天守台や、秀吉の朝鮮出兵の本営・肥前名護屋城の天守台にも共通した、特異な柱間の構造でして、それは桁行の中央部だけが基準柱間で「1間半」等の広い柱間になり、しかも手前と奥とで半間の柱位置が食い違いになっている、というものです。

愛知県の国宝・犬山城天守も同じような構想の建築ですが、旧姫路城と肥前名護屋城という、柱間が判明している秀吉の天守は、いずれもこの構造を踏まえていた点が見逃せません。

この桁行の中央部だけ半間広くとる手法は、平入りの仏殿建築、とりわけ禅宗建築の方丈で多用されたもので、正面の入口を広くするための工夫でした。

そこから派生した手法を、秀吉は、姫路、肥前名護屋の天守で踏襲し続けていたことになるわけで、そのうえ豊臣家の本城たる大坂城にも「半間食い違い構造」の可能性が浮上したとなれば、これは一つの発見と申し上げられるのではないでしょうか?

秀頼主従は、この秀吉時代そのままの天守台にこだわり、そこに「七尺間」に変えた自らの天守を再建したため、以前と同じ端数(=秀吉時代とまったく同じ「5尺」!→何故そうなるかは次回リポートで詳述)が生じたものと考えられます。

以上を総括しますと、秀頼再建天守の初重は、まさに『愚子見記』の記述どおりの、以下の寸法で再建された可能性がじゅうぶんに成り立つのです。

   狭義の天守台上 : 桁行10間5尺×梁間10間
   付櫓との合算   : 東西17間×南北15間
                 (上記いずれも七尺間)

 

第三部

豊臣関白家の宿願と悲劇の発火点

最上重「物見」ノ段


 

より大きな壁面を確保できた最上重

さて、それでは『愚子見記』に「物見 四間五尺 二間五尺」と記された最上重とは、どのような階であったのでしょう?

まず、桁行4間5尺×梁間2間5尺となりますと、各地の天守と比べても、極めて細長い平面をしていたことになり、同程度のものは熊本城小天守あたりしか例がないのではないでしょうか。
そして『大坂夏の陣図屏風』の描写では、南面に両開きの引戸(舞良戸?)が描かれ、東面には片開きの引戸があり、それらの間の壁面に金色の鷺(さぎ)の彫物が掲げられています。

そこで下の模式図は、その戸板を巾6尺の大型のものとして描いてみた図ですが、4間5尺×2間5尺という半端な寸法の平面は、こうして成立したのではないかと考えてみました。




いずれにしましても『愚子見記』の記述どおりならば、当時の一般的な望楼型天守よりも、そうとうに大きな壁面が確保されていたことになりそうです。羽ばたく金色の鷺は、おそらく両翼が最長で3mを超える大型の物まで可能になり、それらはきっと遠方からも視認できたことでしょう。



壁面の四周には九羽の鷺が舞っていた?

現在の大阪城の復興天守閣は、平成の大改修後もなお、最上階の金色の鳥は、古川重春先生の設計以来の「鶴」を採用しています。

ですが、設計の参考資料であった『大坂夏の陣図屏風』に描かれた鳥は、やはり「鷺」(さぎ)であると判断せざるをえません。それは後頭部に長く伸びた冠羽や胸の飾り羽が、日本画の描法から見て何よりの決め手となるからです。

では何故、城郭の天守に「鷺」などという温和な鳥を掲げたのでしょうか。現代人の感覚ではなかなか理解できません。

しかしこれこそが秀頼再建天守の最大の眼目であり、再建された理由そのものと言っても過言でないほどの事柄なのです。




室町時代、九羽の白鷺を描いた「九思図」という画題の掛け軸が多数輸入されました。

九思とは『論語』の李氏編にある「孔子曰,君子有九思」(孔子曰わく、君子に九思あり)で始まる一節を指し、君子の九つの心得を示したものです。

「孔子曰,君子有九思,視思明,聽思聰,色思温,貌思恭,言思忠,事思敬,疑思問,忿思難,見得思義」

「孔子が言われた。君子には九つの思うことがある。見るときははっきり見たいと思い、聞くときは細かく聞き取りたいと思い、顔つきは穏やかでありたいと思い、姿は恭しくありたいと思い、言葉は誠実でありたいと思い、仕事は慎重でありたいと思い、疑わしいことは問うことを思い、怒りにはあとの面倒を思い、利得を前にしたときは道義を思う」

君子はかくあるべし、という孔子の言葉です。

この一節が何故、鷺の絵で表現できるかというと、白鷺は中国語で

 と書き、

であるために、九羽の白鷺で「九思」を意味したと言います。

このような掛け軸は、元代から明代にかけて中国大陸で盛んに制作され、日本に多数輸入されたものの、現存例はわずかな数に限られています。しかし当時の日本では、九羽の鷺が描かれれば、より多くの人々がその画題を理解できたであろうことは間違いありません。殊に数寄者や文人ならば、それは「常識」に近いものであったでしょう。




そこで例えば、ご覧の天守北面(=『大坂夏の陣図屏風』の描写のちょうど裏側)のようにして、「九思図」を最上階の各壁面に掲げるなら、『愚子見記』の4間5尺×2間5尺という細長い形状は、九羽の配置もかなり容易であったはずです。

そしてこれは次回リポートでも申し上げたい事柄ですが、秀吉の創建天守は、最上階の戸が南面にしかなかったとも考えられ、そうした戸の少なさを秀頼再建天守も受け継いで、北面に戸が無かったとしますと、ご覧のイラストのように北壁はフルに使うことができたでしょう。

このように考えて行きますと、おそらくは金銅製の錺(かざり)金具などに仕立てられた「九羽の鷺」が、最上階の東西南北の壁面を廻りながら飛び回るようであり、さながら君子の治める理想郷を表すかのような状態だったのではないでしょうか。



「君子」とは誰であったか

では、九思の対象である「君子」とは、いったい誰を示したものでしょうか。

これには当時の豊臣家の立場が強く影響していたはずであり、著名な笠谷和比古先生は、徳川の将軍公儀と豊臣の関白公儀が「二重」に存在していたという「二重公儀体制」論において、こう述べられています。


(笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』2000年より)

「豊臣秀頼と将軍任官後における徳川家康との関係は、徳川家康と豊臣秀吉との関係とは異なって、ほぼ対等の関係にあったということが銘記されなければならない。このように徳川家と豊臣家とは、楕円における二つの中心のごとく、武家政権における相互対等の二つの頂点をなしており、徳川家は将軍職をその政権のシンボルとして世襲し、いっぽうの豊臣家はその政権のシンボルとしては関白職を潜在的に志向していた」


軍事的な実力で勝る徳川幕府に対し、西国大名の存在を後ろ盾として、既得権を主張し続けた豊臣家にとって、「君子」とは、第一義的には「初の武家関白にして武家官位の頂点としての太政大臣、豊臣秀吉」だったのでしょう。

そして同時に、そうした関白職と武家官位制を受け継ぐべき後継者、秀頼の「正統性」を訴える狙いがあったものと思われるのです。

すなわち鷺と虎の彫物には 「君子、虎の上に立つべし」 という豊臣家の宿願が込められたのであり、そもそも天守がその壁面を使って政治的なプロパガンダを行うのは、父・秀吉の創建天守が最大の成功例であったこと(→次回リポートの主要テーマ)を踏まえていたのではないでしょうか。

そしておそらく、九思図を掲げた直接の契機としては、きっと「御母堂様」淀殿あたりの、秀頼の成長と将来の関白任官に対する切なる期待感から行われたものであったのかもしれません。が、その反響はあらぬ方向に増殖し始め、しだいに危険な輝きを放ったことと思われます。

何故なら、九思図の下に掲げられた虎(寅)の彫物が、いっそう問題を深刻化させたと思われるからです。

と申しますのは、ご承知のように徳川家康こそ寅年寅月寅の日(天文11年12月26日)の寅の刻の生まれと言われ、そのうえ、十男・頼宣が同じ寅年に生まれたことを家康が喜んだという話が世間に伝聞したように、当時も、家康の干支が寅であることは、天下の周知の事柄であったようだからです。

その一方で、また別の考え方を申せば、登城した侍が御殿で控えた部屋は、襖絵に虎を描いて「虎ノ間」と呼ばれた例が多々あったように、虎(寅)は「侍一般」を示した動物とも言えそうです。
したがって、上記のいずれにしても、秀頼再建天守の 「虎の頭上に 九羽の鷺が舞う」 という図象は、父・秀吉が着手した武家関白の体制に復帰すべく、徳川家を含むあらゆる武家は、すべて豊臣関白家の下にあるべき道理を訴えたもの、と受け止められたのではなかったでしょうか。



「君子、虎の上に立つべし」

そしてついに慶長19年1614年夏、関ヶ原浪人やキリシタン侍など、徳川に遺恨をもつ者どもが大坂に集結し始め、幕府が警戒感を強めました。

それら浪人衆が大坂に入城したとき、もしも天守の頂に君子の図象「九思図」が燦然と輝いていたなら、それは時計の針を逆回転させ、再び豊臣関白家が天下に号令する姿を、彼等に夢見させる危険な輝きであったのではないでしょうか。

やがて城内は幕軍の来襲に備え始め、「甲の緒を志め候兵八千七百有 雑兵十萬可有との沙汰也」(『長澤聞書』)といった戦闘準備が進み、そうした状況のなか、秀頼再建天守はある時点から、「倒幕」を天下に呼びかける決起の旗印に変容したのではないかとも思われて来るのです。

さて、念のため蛇足とは思いつつ申し上げますと、この鷺と虎の彫物が、関白秀吉時代のものと考えることも、また可能のように感じられるかもしれません。が、それはありえなかったのではないでしょうか。…何故かと申しますと、秀吉の創建天守が完成する天正13年から翌年にかけては、小牧・長久手で戦った徳川家康を臣従させるべく、秀吉があの手この手の懐柔策を弄していた時期に当たります。

そうした微妙な時期に、家康を登城させたい大坂城の天守に、よりによって家康の干支を膝下に敷くような彫物を掲げることは、同時に自らの母親を人質として徳川方に差し出していた秀吉の心理を思えば、まずはありえないと思われるのですが、いかがでしょうか。…

ちなみに付け加えますと、秀吉の干支は申(さる)か酉(とり)であったと言われ、秀頼は巳(へび)であり、両人ともに、寅年の生まれではありませんでした。
かくして『大坂夏の陣図屏風』の描写が伝える金色の鳥獣は、豊臣秀頼の生涯と、切っても切れない濃密な関係にあったと解釈しうるのです。

 

第四部

秀頼再建天守はここまで復元できる


秀頼再建天守と山里丸(山里曲輪)

朝日に照らされた秀頼再建天守を、北西の高い位置から極楽橋や山里丸を手前にして眺めた様子を描いた。
大坂陣が勃発した慶長19年を想定すると、極楽橋は前年に火事があり、その後に応急修理された様子が
出光美術館蔵の『大坂夏の陣図屏風』に描かれているかのようで、それを参考に櫓門が失われた状態で描いた。
また、その奥に続く虎口は、山口県文書館毛利家文庫の『大坂築城地口坪割図』によると、豊臣末期にはすでに石塁が
改築され、東側に屈曲した形になっていた可能性もある。となると淀殿の屋敷は、江戸時代にそこに建てられた加番大名の
役屋敷と、ほとんど同じ規模でしか建てられなかったことになり、そうした状況を想定して描いてみた。
屋敷の奥に見えるのは勿論、当時完成したばかりの豊国廟であり、大明神造りと想定した。

 

それは慶長後期の「層塔型」唐破風天守ではないか

以上のように申し上げて来た「秀頼再建天守」の建築構造は、果たして望楼型だったか、層塔型だったか、という点も興味を誘う問題でしょう。

何故なら、建造時期が千姫輿入れの慶長8年以降まで下るとなると、慶長後期の層塔型天守という可能性も大いにありえるからです。

例えば、破風の配置の仕方から申しますと、下図の『大坂夏の陣図屏風』の天守は、豊臣のそれと言うより、むしろ徳川の天守に使いと言えるのではないでしょうか。しかも中井家蔵『本丸図』の東南付櫓の様子からは、徳川譜代の水野家ゆかりの福山城天守との類似も考えられるところです。福山城天守は元和8年1622年に建造された層塔型の天守で、徳川の典型的な破風配置が施されています。




ただし層塔型となると唯一問題になるのが、ご覧の『大坂夏の陣図屏風』で、天守の初重と三重目の東面(絵では右端)に描かれた上下二つの入母屋屋根です。これが従来は、望楼型天守の大屋根と見られ、大坂夏の陣当時の天守も望楼型であったという解釈の“根拠”の一つになって来たからです。

しかしあえて申し上げますと、この二つの破風は、長野県松本市の松本城天守にも当初据えられていたという、片側だけに寄せた大型の千鳥破風だったのではないでしょうか。(…同様の千鳥破風は、例えば熊本城の大天守にも、小天守との接続部分に類似のものがあります。)




昭和20年代に行われた松本城天守の修理の過程で、建造当初にはこうした千鳥破風があり、後に撤去されたことが判明しました。

この奇妙な配置の破風は、ひょっとすると、秀吉が創建した大坂城天守の屋根のイメージを引き継ぐための意匠として、考案されたものではなかったでしょうか? と申しますのは、『本丸図』に示されたとおり、秀吉時代の望楼型天守から斜めに張り出した東南付櫓の屋根が、丁度これとよく似た印象であったようにも感じるからです。

そうした特別な意味をもった破風が、豊臣家ゆかりの大名の天守のいくつかに採用され、石川康長時代の建造とも言われる松本城天守にも、同じ意図のもとに採用され、なおかつ同じ理由の故に、その後、江戸の幕府をはばかって撤去されてしまったのかもしれません。…

以上の事柄を総合しますと、『大坂夏の陣図屏風』に描かれた秀頼再建天守の建築構造は、もはや望楼型でなく、層塔型であったと考えることも十二分に可能だと思われるのです。



秀頼再建天守は概略を復元できる

では、ここまでご紹介した初重の上に階が重なり、最上重に『愚子見記』の伝える4間5尺×2間5尺という階が載ると、どのような天守になるのか……
各階の逓減のしかたやプロポーションは前掲の福山城天守を参考にしつつ、各重が1間ずつ逓減していく形で、推定の柱割模式図を起こしてみます。するとその結果は、上階へ行くほど“かなり急激に”南北の厚みがうすくなる印象の建築だったことがわかります。




作図:横手聡

この柱割模式図をもとに、思い切ってイラスト化してみました。




秀頼再建天守と付壇上の櫓 南東より

ご覧のイラストは、話題の天守と、その南東の長さ「十二間」という細長い付壇上に想定した櫓を、近くから見上げたアングルのものですが、こうして見ますと『大坂夏の陣図屏風』の天守周辺の描写とも、たいへんに似通った景観になります。

屏風絵には天守の右側に二重櫓と多聞櫓が描かれていて、これまで本丸奥御殿の南東側の櫓群と解されたりしましたが、このような想定で考えますと、例えば彦根城天守に付加された多聞櫓と同様の、第二の登閣口を構成する櫓群として解釈することも出来るのではないでしょうか。
(Web版の追記:なおご覧のような幅広の石段の存在については、関連のブログ記事の方をご参照下さい。)



おびただしい釘隠が物語る「鉄板張り天守」

さて、『大坂夏の陣図屏風』の天守は壁面にも大きな謎を残しています。

それは従来から言われてきた「色」の問題ではなく、「釘隠(くぎかくし)の数の多さ」が投げかける問題です。

どういうことかと申しますと、屏風絵の天守の長押の描写をご覧いただくと、おびただしい数の金色の釘隠や逆輪(さかわ)等の化粧金具が打ってあります。ところがそれにも関わらず、壁面には隅柱以外の真壁の「柱」がまったく見えないというのは何故なのでしょうか? これを不審と感じる方は少ないようですが、大問題です。




これほどまでに「釘隠」がある以上は、真壁の柱が無かった訳ではないのでしょう。

ただ、それが見えにくかったのではないか… 何かで一様に覆っていたために、柱と壁の区別がつきにくくなっていたのではないか… と考えますと、「金属の板張りの壁」という答に行き当たります。

「金属張り」と言えば、当リポートで先程から復元の参考にしている福山城天守が、鉄板張り天守の実例として知られています。ご承知のとおりこの天守は、城内で北に寄り過ぎていたため、防御の難ありとされて、天守北側の壁面をすべて鉄板で覆っていました。

また他の城においても、例えば厚さ1〜2ミリ、幅3センチほどの細長い金属板をびっしりと打ちつけた「鉄門(くろがねもん)」や「銅門(あかがねもん)」が多くの城で普及しました。
いずれも、敵の攻撃が集中しやすい場所を防御する措置でしたが、鉄板はその表面に漆を塗り、雨風による錆の発生を防いでいました。

で、その漆ですが、鉄門の現存例は、すべて「黒漆」とされています。




ただし漆塗りの技法の中には、甲冑などで好まれた「鉄錆地塗り」という、鉄板があらわになったようにみせる技法もあり、その色はまさに「鉄灰色」でした。

そして『大坂夏の陣図屏風』の天守の壁は「暗い灰色」で描かれています。

この屏風(右隻)の本物を目視で確認してみますと、まったく同じ色調の「暗い灰色」が使われた部分が、三箇所あるようです。

すなわち、その一つ目は大野治房の頭上に掲げられた指物。二つ目は徳川家康が掲げる小馬印の銀のふくべ。
そして最も多量に描かれた三つ目が、家康を囲む馬廻りの侍たちの甲冑(しころ・袖・草摺)であることが判ります。これはまさに「暗い灰色」が“金属色”だという意味合いを示していて要注意の事柄でしょう。

ちなみに、屏風絵の特異な天守の壁の色については、かつて櫻井成廣先生が「藤鼠色」とされ、宮上茂隆先生が「ねずみ漆喰」と解され、さらに「黒壁」「銀箔張り」など様々な見方が示されて来ましたが、当リポートは「おびただしい釘隠と見えない柱」という理由から、この壁面は鉄板張りであり、しかも「鉄錆地塗り」「黒漆塗り」の二色に塗り分けた鉄板でそれぞれ、柱と壁を全面的に覆うように打ちつけたもの、と申し上げたく存じます。

そうした鉄板の被覆の上から、金色の釘隠を施すことで、初めて屏風絵のような(複雑な)壁面が出来上がるのではないでしょうか。

やや屋上屋を重ねた感のある意匠ですが、こう考えるのが一番合理的な解釈だと思われてなりません。





秀頼再建天守は砲撃戦を予期していた

ですから、秀頼再建天守は砲撃戦をある程度、予期していた可能性があったのでしょう。

しかしそうした備えがあったにも関わらず、大坂冬の陣の開戦後まもなく、幕府方の砲撃で天守は被弾し、その柱が折れたと伝わります。

この時、文字どおり「鉄壁の」天守が打ち砕かれてしまった衝撃は、さぞや大きかったのでしょう。淀殿の大坂城に対する信頼をいっぺんに突き崩し、急速に幕府方との和議に傾いていったものと想像されるのです。

そして和議の結果、外堀を埋められた大坂城が、ほどなく大坂夏の陣で炎上し落城したことは申し上げるまでもありません。



徳川将軍と対峙する形で「天守」を描かせた黒田長政の深意…

では当リポートの最後に、そうした豊臣家滅亡の時を描写した『大坂夏の陣図屏風』そのものについてですが、これを描かせたのは旧豊臣大名の黒田長政であったと言われています。

そして従来から、この屏風は右隻と左隻の成立に時代差があるのでは?との説がありましたが、なるほど両者の現物を見比べてみますと、右隻(天守のある方)がずっと古びて見えます。
それに比べて、阿鼻叫喚の殺戮戦が描かれて「元和版ゲルニカ」と評された左隻は、意外なほどに新しく見えるのです。

屏風の詳しい成立過程はまだ研究途上のようですが、ここで仮に、長政が命じて完成したのは右隻だけであった… と仮定してみますと、そこには、実に意外なものが見えて来ます。




『大坂夏の陣図屏風』右隻(大阪城天守閣蔵)

と申しますのは、右隻だけですと、ご覧のとおり絵の全体が、豊臣方と幕府方が左右から激突する構図になるのです。しかもちょうど真ん中で!

そして注目すべきは、その左端に秀頼再建天守を描き、右端に家康・秀忠の本陣を描いているため、さながら「天守」と「将軍(征夷大将軍)」が対立関係にあって、それぞれの軍勢の背後からにらみ合い、あたかも、この世の両極端から対峙する存在であるかのように描いていることです。

これは絵の依頼主が、福岡城の天守を自ら取り壊したとも言われる黒田長政であることを踏まえますと、かなり、かなり興味深い構図と言えるのではないでしょうか?

ちなみに、黒田長政が福岡城天守を破却したというのは、『細川家史料』に元和6年1620年に行われたと記され、その理由は「徳川の世は城もいらないので天守を崩しました」というように、長政自身が将軍・徳川秀忠に言上した旨の伝聞が記載されたものです。

ここであえて申しますと、この記録は、天守とは何だったのか?という問題の解明に、一筋の光を当てた出来事と言えるのではないでしょうか。

と申しますのは、織田信長、豊臣秀吉という、言わば天守を創出した二人の天下人を仰ぎ見ながら成長した黒田長政にとって、天守とは、もともと「将軍」と対立する存在(観念)であり、徳川将軍の治世には否定されるべき代物であり、そのため自らの天守を壊して見せることが“幕府への御奉公”と考えていたのだとしたら、天守という建造物の「本質」が垣間見えるようだからです。

信長、秀吉、二人の天下人が政治的にめざしたのは、さまよえる足利将軍を政権の旗印とする脆弱な政治体制を刷新して、言わば公武合体の中央集権的な統一権力を樹立することであったのでしょう。

当リポートでは順次ご紹介していく予定ですが、天守(天主)とは本質的に、そうした求心的な国権の回復を武力で成し遂げた「天下布武」の版図を示す革命記念碑であった可能性があるのではないでしょうか。

それは、それまでの武家屋敷に皆無だった、天高く築く新建築を創出することで、支配者の交替を領民の視覚に焼き付け、しかも大航海時代の余波に乗じた「拡張主義」も体現して、はるか朝鮮半島にまで版図(国威)を示すために築かれた建造物、というのが当サイトの基本的な解釈です。

ですから天守とは、幕藩による分権統治を是とする「幕府」とは本質的に相容れない存在であり、やがて徳川幕府はそうした天守の意味を巧妙にずらし、換骨奪胎する作業を始め、そのまま一国一城令で凍結状態に置くうちに、天守とは何だったのか、誰も分からない時代が到来したのだと考えております。

したがって『大坂夏の陣図屏風』において、天守と将軍が対峙して描かれたことは、そうした「天守の変遷」を知りえた長政ならではの、黒田家中に向けた “訓戒状”ではなかったかと思われるのです。
すなわち、徳川の世では、秀頼の犯した錯誤(王統政治の復権)を繰り返してはならぬと、進んで天守を壊した長政には、その理由をもはや家中で事細かに語ることもはばかられ、天守の時代はとうの昔に終わったのだと、無言のうちに伝えたかったのかもしれません。…



以上をもちまして、第一弾リポートを終了させて頂きます。印象はいかがでしたでしょうか? 次回からは、まず秀吉の創建天守を手始めに「天守が建てられた本当の理由」を具体的にご紹介してまいります。

作画と著述:横手聡


天守が建てられた本当の理由−次回の内容−

2008冬季リポート

秀吉の大坂城・前篇

王政復古政権の破格の建築なり。

天下人・豊臣秀吉の天守は「丈間」で建てられていた

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