当リポートをご愛顧いただき、ありがとうございます。
今回ご紹介する豊臣秀吉の大坂城天守(初代)は、宣教師や大友宗麟の見聞録があり、中井家蔵『大坂御城小指図』(通称『本丸図』)等に天守台の寸法が記されたものの、その他の指図類は存在せず、屏風絵に大まかな外観が描かれただけの、幻の天守です。
とりわけ大坂の陣の後に、徳川幕府による再築工事で天守台が撤去され、さらに明治時代、当該地に市の貯水池が建設されてしまったため、近年ますます威力を増す考古学的手法(発掘調査)もなかなか成果が期待しにくい、というハンデを負っています。
そこで当リポートは、秀吉が建造した他の天守の発掘成果と、文献史料とを、独自の観点から突き合せたところ、望外の新知見を得ることが出来ました。
それは天下人・豊臣秀吉の天守のすべてについて、かなり大きな見直しを迫るばかりか、「天守」そのものの概念(認識)をも揺り動かす内容を含んでいるようです。
今回ご紹介する秀吉創建の大坂城天守は、当シリーズの論点の核心を成す建築の一つです。
作画と著述:横手聡
当リポートの主な内容
第一部 <秀吉が遺した「丈間」(十尺間)の天守台とは>
第二部 <その天守は「軍神」八幡神の神紋で荘厳されていた>
第三部 <建築構造の解明に至る道筋>
豊臣秀吉(とよとみのひでよし 1537−1598)はその晩年、総勢30万余(渡海軍15万余)の軍勢を起こして朝鮮半島に攻め入りました。
当時の言葉で「唐入り」「高麗御陣」と呼ばれたこの戦争のため、秀吉の本営として築かれ、諸大名の駐屯地が集積し、渡海軍の出征港となったのが、佐賀県鎮西町の肥前名護屋城とその城下でした。
城跡に併設された県立名護屋城博物館では、平成6年から一帯で発掘調査を続け、数多くの成果を上げています。
なかでも、天守に関わる成果で城郭ファンを驚かせたのが、天守台跡の礎石配置から判明した柱間の寸法でした。柱と柱の間が「十尺」(約3m)もあるという、城郭建築では例のない、幅広の柱間を採用していたのです。
ちなみに十尺は一丈に当たるため、十尺の柱間は俗に「丈間」とも呼ばれました。
発掘の報告書によれば、この天守台は内部に穴蔵をもち、桁行中央の柱間は十三尺(約4.0m)もあり、全体の規模は21.4m×17.2m(7間×6間)であったと推定されています。
つまりこの天守台は「丈間」を採用しながらも、中央の柱間だけがさらに幅広になるという、前回リポートでも紹介した秀吉の天守特有の「半間食い違い構造」を踏襲していた可能性があります。(※半間食い違い構造とは、桁行の中央部だけが1間半など幅広の柱間となり、しかも手前と奥とで、その半間分の柱位置が食い違いになっているというもの)
ところが、この肥前名護屋の特異な(十尺間の)柱間を伝える報告書が出たあとも、城郭研究の世界では、特段これといった議論も交わされないまま、早や十年が過ぎようとしています。【Web版の追記/現時点では十五年】
これは「丈間」という、あまりにも意外な柱間のため、研究者の間で判断が留保され続けてきた、というのが実情ではなかったかと思われます。
ご承知のように日本の伝統建築では、時代や地域、建物の格式などによって様々な寸法の柱間が存在しました。
特に天守においては、織田信長の安土城や徳川家康の駿府城などで、天下人の格式を示すため、室町将軍邸ゆかりの「七尺間」が採用された一方で、諸大名の天守は六尺五寸間の「京間」で建てられた場合が多く、その他にも六尺三寸間の松江城天守、六尺間の松本城乾小天守(旧天守かと言われる建築)など、地域によるバリエーションも見られました。
しかし柱間十尺の「丈間」で建てられた天守、及び城郭建築は、存在しなかったとされています。
というのは、改めて申すまでもなく、十尺間(丈間)の建物といえば、平安時代の公家の邸宅である「寝殿造」が代表的で、いわば階級的な格式を体現した建築であって、それらの公家邸は、場合によっては「里内裏」として天皇が仮住まいする可能性のある場所でもあったからです。
ご覧のように現在、十尺間の建物として最も有名なものは、京都御所の正殿「紫宸殿」でしょう。紫宸殿は平安時代以降、天皇の「即位の礼」など朝廷の公式行事が行われ、御所の中心となってきた建物です。
現状の紫宸殿は、幕末の安政2年1855年に再建されたものですが、古式に則って、桁行の柱間が十尺となっています。
このように十尺間(丈間)とは、天皇や公家の居所、および有力寺院の本堂などにのみ使われた規格であり、武家屋敷にはおよそ縁のない建築規格だったのです。それが我が国の伝統建築の「常識」でした。
ですから、いったい何故、秀吉の肥前名護屋城天守に「丈間」が採用されたのか、説明のしようがないのは当然の事だったのでしょう。
しかし、玄界灘をのぞむ天守台跡に今もくっきりと「物証」が刻まれていることに対して、そろそろ真正面から向き合うべき時期にあるのではないでしょうか?
そこで当リポートは、天下人・豊臣秀吉の天守は、すべて「丈間」を基本に建てられたのではないのか!?…という仮説を大胆に立てて、その可能性をさぐって行くことにいたします。
前回リポートでは、『大坂夏の陣図屏風』に描かれた唐破風の天守が、後継者の豊臣秀頼による“再建天守”であった可能性をご紹介しました。
その一方で、父・秀吉の創建天守としては『大坂冬の陣図屏風』『京大坂祭礼図屏風』『大坂城図屏風』の描写がそれであったと言えるでしょう。
実は、これらの絵画史料については、ある興味深い共通点があり、その最上階の描かれ方にご注目頂きたいのです。
上の三つは、秀吉の天守を描いた代表的な絵画史料です。
一見したところ、かなり大まかな描写に見えながらも、どの天守もそろって最上階が「ニ間四方」で描かれているのです。二間四方とは、横幅と奥行きがそれぞれ基準柱間の二間で構成される正方形の床面をもつ空間で、柱の数は計八本になります。
例えば右上の『聚楽第図屏風』は、豊臣政権の京における政庁・聚楽第を描いた絵として有名ですが、最上階の南面と思われる壁(絵の左面)には戸が無く、その二間からなる壁面には大ぶりな華頭窓のあった様子が、しっかりと描写されています。
一方、御所の方角・東面(絵の右面)には戸が描かれていて、その壁面は柱四本(三間)からなるように描かれています。しかし屋根の掛け方をみるとそれは妻側に当たり、この面が平側より幅広であることは極めてまれであるため、やはり同じ基準柱間「二間」分の寸法であり、戸を設けるため柱四本にしたものと考えられるでしょう。
したがって絵画史料における秀吉の天守は、聚楽第も、大坂城も、そろって最上階が「二間四方」で描かれた場合が多いのです。
これは単なる偶然なのでしょうか?
秀吉の旧主・織田信長の安土城天主は、その最上階が七尺間で「三間四方」(『信長記』『安土日記』)だったと伝わります。
この三間四方とはどのような広さだったのでしょう。当時の大工が使ったのは「鉄尺」(1尺=約30.258cm)であり、これを一尺として面積をザッと計算してみます。
A.七尺間の三間四方
(30.258×7×3)×二乗
=403756.0347平方cm ≒40.3平方m
B.京間(六尺五寸間)の三間四方
(30.258×6.5×3)×二乗
=348136.5809平方cm ≒34.8平方m
C.丈間の二間四方
(30.258×10×2)×二乗
=366218.6256平方cm ≒36.6平方m
概数で比べますと、A40.3平方m B34.8平方m C36.6平方mとなり、Cの丈間はABの中間の値です。
この三者の差は、最大でも現代の三畳分ほどで、二十数畳分に達する全体からみれば、その差はわずかにしか感じられないでしょう。
つまり丈間の二間四方とは、七尺間や京間の三間四方とほとんど同じ規模であり、したがって階全体の“重量”も大差がありません。ですから草創期の望楼型天守にとって、重量的に耐えうる範囲で丈間の最上階を実現したことになります。
それでいながら、中に入った者の感覚としては、七尺間と十尺間は1.5倍に近い差があり、十尺間(丈間)の方がはるかに広々とした印象を受けます。この効果が、もし意図的に狙ったものだったとすると、二間四方の最上階とは “実に秀吉らしい着眼”と言えるのかもしれません。
なお最上階の広さに関しては、宣教師ルイス・フロイスの見聞録にこんな記述もあります。
最上階が丈間の二間四方(36.6平方m)であった場合、そこに秀吉や宣教師ら三十人余が全員座るとどうなったか、試しに図上で再現してみました。まさに「関白の衣服に触れた」ほどの状況であったことが分かります。
さて、前回リポートの秀頼再建天守の検証では、大工棟梁・平政隆の建築書『愚子見記』に記された“ある奇妙な数字”を手掛かりに、様々な符合(ふごう)を発見し、そこから天守台や建物の構造についての仮説をご覧いただきました。
「一、大坂御殿守 七尺間 十七間 十五間 物見 四間五尺 二間五尺」
前回ご覧いただいたこの模式図は、『愚子見記』の問題の数字をもとに、中井家蔵『本丸図』に描かれた天守台が、実は、全体が七尺間で東西17間(119尺)南北15間(105尺)の規模にあたり、その上に七尺間の秀頼天守が再建された様子を図示してみたものです。
この天守台は父・秀吉の創建時に築かれたものでしょうから、同じ天守台の上に、かつては「丈間の天守」が存在しえたのかどうか、色々と当てはめてみますと、またもや、驚くべき符合の数々が判明したのです。
同じ天守台の上に「丈間」で柱割(はしらわり)を行ってみたのが、ご覧の模式図でして、このとおり一目瞭然でもあるため、あえて結論から先に申し上げますと、「丈間の半間食い違い構造で、驚くほどぴったり当てはまる」という衝撃的な結果が待っていたのです。
では部分的に一つずつ見て行きますと、まず狭義の天守台は、東西の寸法が京間で12間(=78尺)と伝わりますので、これは丈間ですと7間半と3尺の余りになります。 78尺=10尺×7.5 + 3尺
この「3尺の余り」は、前回リポートと同じく、福井県の丸岡城天守と同様の幅1尺5寸の「腰庇」(こしびさし→図のグリーンの部分)が初重をぐるりと廻っていて、その東西両端の二筋分の寸法(1尺5寸×2=3尺)だということが想像できます。
そこでこの3尺を除いて、創建天守の本体の初重は、東西(桁行)がちょうど「丈間の7間半」で建てられていた、と解釈できるわけです。
!!! お気づきのとおり、桁行に「半間」の端数があることから、父・秀吉の創建天守もやはり、肥前名護屋城や旧姫路城の天守とまったく同じ「半間食い違い構造」であった可能性が浮上します。
続いて南北(梁間)については、狭義の天守台は京間で11間(=71尺5寸)と伝わり、この「11間」という数値が、またまた驚くべき符合を示しています。
と申しますのは、『本丸図』(下記の「黄堀図」)では、天守台の南西の角(図では右上)のあたりは「朱線」で描かれていて、それがいくぶん西側(右下)にまで回り込んでいます。これは、この部分の壁面が石垣上でなく、直接に地面に接した状態を描いたのだろう、という解釈が、かつて宮上茂隆先生によって示されました。(宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』1984年)
実は、この宮上説は、「11間」という数値自体が、すでに地面への接地を“傍証”しているようなのです。
どういうことかと申しますと、11間(71尺5寸)というのは、丈間では「7間と1尺5寸の余り」でありまして、すなわち、南北いずれか片側だけに幅1尺5寸の「腰庇」があって、反対側は石垣上ではなかった!! ということを「11間」という数値自体が指し示しているかもしれないのです。
では、地面に直接に接した壁面は、どれだけの範囲だったかと申しますと、『本丸図』のこの部分の朱線には寸法の書き込みが無いため、推定せざるをえないのですが、ご覧の模式図のように南側の1丈分だけが壁面ではなかったかと思われます。
そう申し上げる理由は、朱線で囲まれた矩形を天守登閣口に張り出した「土間」空間と考えた場合、例えば現存の松本城天守、彦根城天守、犬山城天守、いずれも構造や形状は異なっても、そうした土間の奥行き寸法は1〜2間であり、それを丈間で柱割するなら「1間」が妥当だろうと思うからです。
したがって南北の丈間7間余のうち、南に張り出した壁面が1間、残り6間余が石垣上に建ち、腰庇の分を除いた天守本体の梁間は「6間」であったと解釈できるわけです。
ここまでを総合しますと、狭義の天守台上に「丈間」の柱割を行った結果は次のとおりです。
東西(78尺) = 桁行7間半+(腰庇1尺5寸×2)
南北(71尺5寸)= 梁間6間 +(土間1間+腰庇1尺5寸)
天守本体の初重は7間半×6間であったことになります。
ここで何より重要なポイントは、こうした分析の結果、秀吉が創建した大坂城天守の本体は、肥前名護屋城天守において、まったく同じ初重プランが踏襲(共通化)されていた… という驚くべき可能性でしょう。
両者ともに、柱割の基本は「丈間が主体の7間半×6間」であったのです。
これを時系列的に言い直すならば、大坂城において史上初めて秀吉が十尺間(丈間)の天守を建造し、その豊臣政権にとって乾坤一擲(けんこんいってき)の「唐入り」戦争(国家総動員体制)の発動のため、その本営たる肥前名護屋城において、「丈間の天守」の本体部分が再現されたという、戦慄すべき秘史が垣間見えて来るのです。
そして、こうした経緯がそのまま、なぜ天下人・豊臣秀吉の天守には「十尺間(丈間)」が採用されたのか? という理由の核心部分に触れているのではないでしょうか。
この核心部分の検討は後ほどたっぷり行うとしまして、まずは肥前名護屋城跡に現存する「礎石列」と、「絵図」(『本丸図』)、及び「文献」(『愚子見記』)の三つが、そろって「丈間が主体の7間半×6間」という一点に焦点を結んだことは、大変に意義深いと申し上げざるをえません。
一見、常識外れと見えた「丈間の天守」ですが、以上のような検討を加えますと、数多くの「符合」が判明し、ここまで符合が重複するという事態は、なかなか偶然の産物とは考えにくいものです。
しかし、ここで 「丈間の天守は実在した」 と完全に主張できるまでには、依然として大きなハードルがあるでしょう。ことにその動機(根拠)について、何らかの解明が必要であるように思われます。
平たく申せば、十尺間(丈間)の天守とは 「御所の紫宸殿と同格の天守建築が実在した」 ということを意味します。
そのような常識外れの建築が、日本の歴史上、出現する余地は果たしてあったのでしょうか。
一説に「百姓以下」とも言われる階層から立身出世した秀吉は、旧主・織田信長の横死後、その後目争いのなかで天下の覇権に手をかけました。
ところが秀吉自身の政権構想は思わぬ紆余曲折をたどり、まことに帳尻合わせの任官昇叙のすえ、大方の予想を裏切る「関白政権」として船出しました。
『室町の王権』等で著名な今谷明先生は、そうした秀吉の政権について、執拗なまでに天皇の威を振りかざす異例な発給文書の数々に着目されました。
近年では、秀吉の旧主・信長が(三職推任を経て)要求したのは「将軍」職であったとの見方が有力のようです。
にも関わらず、秀吉がなぜ幕府でなく“王政復古”政権を選択したかについては、今谷先生は同書の中で、織田信雄・徳川家康の連合軍と戦った小牧・長久手での「敗戦」が、その痛恨の原因になったのだとしています。
すなわち、敗戦の影響により征夷大将軍任官の最大の条件である「東国支配」が遠のき、そのため幕府開設を断念せざるをえなかったというのです。
では、その辺りの秀吉の行動について確認してみますと…
ご覧のとおり、小牧・長久手の戦況悪化と大坂城天守の建造とは、天正11年〜13年の緊迫した時間経過の中で、同時に進行していたのです。
そしてようやく停戦にこぎ着け、天守が完成する頃には、秀吉の矢つぎばやの任官昇叙が相次ぎ、大坂城には服属大名が続々参集するという状況が生まれ、翌14年にはついに徳川家康も大坂に登城して臣従を誓っています。
従来、大坂城天守と言えば「織田信長の安土城天主を模倣し、豪華に見せただけの代物(しろもの)」といった見方が固定的であった訳ですが、果たしてそのような代物が、この緊迫した政治情勢下で建造されるものでしょうか。……
とうの昔に信長の威光は消え失せ、新たな織田(信雄)徳川連合軍が結成されて、秀吉はその眼前の強敵に「負けていた」のです。
ですから、ここであえて強く申し上げたいのは、この時点では、秀吉を後の独裁者「黄金太閤」と混同してはならないのであって、秀吉はその時、どうにも勝てない相手と膠着(こうちゃく)状態に陥り、政権の行く末に暗雲が立ち込め、起死回生の秘策を求めていた中で、ある救いの妙案を手繰り寄せた… ということなのです。
ご承知のとおり、信長もしばしば天皇の勅命を使って難局をしのぎましたが、それでも晩年は自らをあえて“無冠の帝王”とすることで、政治的な圧力を演出しました。
しかし政権発足時の秀吉はとてもそれどころではなく、したがって秀吉の豪壮な「天守」というのは、まずは天皇(関白政権)の権威をことさらに振りかざすための「装置」であったに他ならず、「十尺間」という破格の天守が築かれたのも、それ故ではなかったかと思われるのです。
秀吉の新城には、是が非でも、“王政復古”を際立たせる天守が不可欠とされ、そうした中で、もはや武家の建築とも言い切れない「異種」が誕生していたのではなかったでしょうか。
このような解釈は、我々現代人の天守(天守閣)の認識とはおよそかけ離れてはいるものの、いま強く求められるのは「…我々は肥前名護屋城の発掘成果をいつまで棚ざらしにするのか!?」という素朴な疑問に対して、正面から答えうる【仮説と検証】に取り組むことではないかと申し上げたいのです。
そのためには、ご紹介している「丈間の天守」こそ、天下人・豊臣秀吉の天守の実像を解明する上で、おそらく最も合理的な仮説であり、当サイトの主題「天守が建てられた本当の理由」を見い出していく上でも、重要な道筋の一本なのだと確信しております。
冒頭で申し上げたように、秀吉の「唐入り」戦争は文禄元年4月、「数千艘」とも伝わる小西行長・宋義智ら第一陣の釜山上陸から開始されました。
しかし秀吉自身がこの戦争について初めて語ったのは、先ほどの年表のとおり、その7年前の天正13年のことです。
以来、豊臣政権がこの戦争に向けた態勢固めは凄まじく、『雑兵たちの戦場』等で知られる藤木久志先生は、開戦の年に発令された「個人の人身把握をめざす個別調査のための人掃い(ひとばらい)令」とその台帳を例に挙げておられます。
まさに国家人民を挙げての「総力戦」であったことが想像されますが、それをいかに遂行したのかと言えば、藤木先生の同書の指摘がさらに興味深いものです。
ここにある鍋島家の侍・田尻鑑種(たじりあきたね)ばかりでなく、従軍した将兵らの心には、際立った「神国意識」が満ち満ちていたことが指摘されています。
その一方で、秀吉自身はというと、自らの死後に「新八幡」という神号を贈られることを願ったと伝わっています。(フランシスコ・パシオ報告ほか) その後、秀吉に対して実際に朝廷から追号されたのは「豊国大明神」であった訳ですが、秀吉自身が願った「新八幡」という神号には、やはり政治的な思惑が感じられます。
秀吉の神格化は歴史と宗教の両分野で論じられて来た問題ですが、この一連の問題を解くキーワードはやはり「八幡」のようです。
例えば平安時代に関東で蜂起した平将門や、石清水八幡宮で元服した源義家、平家物語の那須与一など、日本のあらゆる武家が武運を祈ったのは「八幡大菩薩」でした。大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮は、その八幡信仰の発祥地にして、全国に四万社以上あるという八幡宮(八幡神社)の総本宮です。
その本殿には、祭神の八幡三神を祀る社が三つ横に並んでいます。
一之御殿の祭神は「八幡大神」であり、社伝(『八幡宇佐宮御託宣集』)によれば、八幡神とは第十五代天皇の応神天皇(誉田別尊)の霊であるとされています。
二之御殿の祭神は比売大神(ひめおおかみ)であり、これは地方神の宗像三女神であるとも、また別説には応神天皇の后神とも言われています。
そして三之御殿の祭神が、応神天皇の母、神功皇后(息長帯姫命)です。
神功皇后はご承知のように、軍勢を率いて朝鮮半島に渡り、新羅・高句麗・百済の三国に朝貢させたという「三韓征伐伝説」(『日本書記』)の主人公であり、神功皇后は応神天皇を妊娠したまま出陣、帰国して出産したとされています。
これら三つの社が現在の形に整ったのは弘仁14年(西暦823年)と伝えられ、社殿全体は南に見える御許山(おもとやま)を向いて建立されています。
この山は八幡神が馬に乗って出現したという民間伝承のある山ですが、通常、山を御神体とする神社はその山を背にして建立されるものの、何故か、宇佐神宮は正反対に山側(九州内陸部)を向いて建っています。
何故このような形なのか、別府大学教授の飯沼賢司先生は、これは八幡神の起源にかかわる問題であるとして、次のように指摘されています。
同書によれば、八幡神とは、古代国家が九州の「隼人」と戦う中で、神として現れたもので、その直接の契機は和銅7年(西暦714年)、隼人側の大隈国の真っ只中(辛国城)に古代国家が豊前の国人衆を入植させた時のことでした。
その時、社伝に「辛国城(からくにのしろ)に始めて八流(やつながれ)の幡(はた)と天降りて、我は日本の神と成れり」とある瞬間が訪れたのです。
このように、秀吉が自らの死後にまでこだわった「八幡」とは、その起源をたどっても、辺境の地に立って新たな国境を守護する神であり、最前線の尖兵らの軍旗の上に降り立つ神、すなわち「軍神」であったのです。
さて、秀吉の創建天守を描いたと考えられる絵画史料の中で、日本の城郭建築には似つかわしくない、異様な表現で描かれた天守があります。
ご覧の『大坂城図屏風』の天守がそれで、壁面にはおびただしい数の金色の紋章群が並び、屋根には金色の彫刻充填式の破風が据えられ、軒瓦にも金箔が押されています。
ここまで黄金づくしで飾り立てられた天守は、他に類似例もありません。そのあまりの特異さから、おそらくは“黄金関白の城”を誇張して描いた特殊な例と解され、これを具体的に検証しようという試みも殆ど行われて来ませんでした。
ただしこの屏風絵自体は、大坂城と市街を描いた現存最古の図像とされていて、例えば天守の下方に描かれた二ノ丸の堀際はまだ「土塁」のままです。つまり石垣施工前の描写のようであり、この土塁そのものはひょっとすると石山本願寺の時代にまでさかのぼる可能性もあるのではないでしょうか。
ちなみに二ノ丸の石垣普請は天正14年1586年の2月に始まっています。天守の完成はその前年の春ですから、ここに描かれた通りの景観があったとすれば、それは天正13年の春から約1年程の短い間のことで、天守は完成したばかりの燦然と輝く姿だということになります。
この天守が前述のとおり“王政復古”政権を喧伝した建築だとしますと、(建造当初からあった?)おびただしい紋章群の意図についても、改めて検証してみる価値は大きいと言わざるをえません。
屏風絵の天守には「菊紋」「桐紋」「左三つ巴紋」「牡丹唐草」の四種類が配置されています。
このうち「菊紋」「桐紋」は天皇家の紋としても有名で、秀吉が豊臣姓を下賜されたとき、同時に拝領した紋でもあります。
屏風絵の「菊紋」は天皇家の紋と同じ十六(弁)八重菊のように見え、「桐紋」は葉脈の少なさや左右の花房が傾いていることから秀吉特有の「太閤桐」とも見えます。
そして天守四重目には「巴紋」があります。巴は神社の紋「神紋」の代表格であり、前述のように「八幡大菩薩」の紋として古今の武家から尊崇されたものです。屏風絵には左巻きの「左三つ巴紋」が描かれ、これと同様のものは神功皇后の臣・武内宿禰ゆかりの織幡神社や気比神宮など、数多くの神社で使われています。(※巴の「左右」表記は丹羽基二先生が考証した古い表記法による)
さらに天守二重目と五重目縁下には「牡丹唐草」があります。
牡丹紋は五摂家(藤原氏嫡流)の近衛家の紋として知られ、前述のとおり秀吉が「藤原秀吉」として関白に叙任されたこと、またその一件などで縁の深い近衛信尹の家紋がそれであることも連想されますし、さらに付け加えるなら、伊勢神宮をめぐる次の秀吉の逸話にも「牡丹唐草」が登場します。
それは天守完成と同じ天正13年、伊勢神宮の内宮で124年ぶりという式年遷宮を復活させるため、秀吉は金子五百枚・米千石を寄進し、遷御翌日には秀吉の母・大政所が参拝するという多大な関与を示しました。
しかし完成した殿舎は、様々な点で旧習をはなれた建築になってしまったようで、錺金具の文様には「牡丹唐草」が彫られたと言います。(中西正幸『神宮式年遷宮の歴史と祭儀』1995年)
このように四種の紋は、それぞれに、秀吉との関係を語ることが出来る紋章だと言えそうです。
では、これらが、天守全体を使って並べられたこと自体については、特段の意味もなく、ただの羅列に過ぎないと理解していいのでしょうか??
いえ、そうではなく、反対にこの点こそが、秀吉の最大の狙いであり、紋章群は例えて言うなら「秀吉が発したブロックサイン」ではなかったか、という感があります。
野球でお馴染みのブロックサインは、監督やベースコーチが敵側にさとられずに次の作戦を味方に伝えるため、複数のサインの「組み合わせ」で指示を伝えるものです。つまりサインの一つ一つは敵に見られても真意は知られず、味方プレーヤーにだけ本当の意図を伝え、密かに意思統一を図るための手段です。
もしここでブロックサインという言葉が稚拙であるなら、それは例えば「暗示」「隠喩」「寓意」と称してもいいものだったのかもしれません。
すなわち、おびただしい紋章群は、それ全体で、ある一つの(同じ民族だけに通じる)暗示を伝えた!!… というのが真相に近いのではないでしょうか。
その暗示の中身と言えば、やはり「王政復古の新政権として神功皇后の三韓征伐伝説を世情に喚起したい」という政治的な思惑であったように思えてなりません。前述の田尻鑑種をはじめ、朝鮮出征兵士の際立った神国意識がいつ頃、いかにして醸成されたかは未だ研究途上の課題でしょうが、当リポートでは、この異様な姿で描かれた大坂城天守こそ、その問題と無関係では無かったものと考えております。
この点に関しては、前出の藤木先生は著作のなかで、秀吉政権の動員令をテコに、各地で大名による直接支配も進んだことを指摘しておられます。
秀吉にとって“統一と侵略”が不可分のものであったなら、政権発足時に建造した天守にすでに三韓征伐の寓意が込められ、八幡三神の神紋を中心に建物が荘厳された、という可能性も十分にありえたのではないでしょうか。
秀吉は、いにしえの記憶の底から「天皇の大権」を呼び覚ますことで、まずは陣営の正統性を獲得し、そのうえ「神国意識」を奮い立たせることで、天下統一後もつづく戦時体制の構築にも成功したと言えそうです。
かつて天下人・秀吉の城を「見せる城」と評されたのは小和田哲男先生ですが、華やかな金色の意匠の裏に、狡猾な政治的「暗示」を組み込んだ大坂城天守は、歴史上、古今に比類なき「見せる天守」だったのです。
さて、その紋章群とは、具体的にはどのような物だったのでしょう。
同時代の事例で似たものを挙げますと、まずはご覧の醍醐寺三宝院の国宝「唐門」にある木彫の紋が連想され、この門が勅使門であることを示した菊紋と桐紋には、かつて金箔が張られていたそうです。【Web版の追記/2010年に金箔張りで修復されました】
一方、『信長記』『信長公記』類によれば、織田信長の安土城天主には、京の装飾金工・後藤平四郎が腕を振るったという金銅製の錺金具が施されていました。おそらくは釘隠し(くぎかくし)の類かと思われ、その仕事で平四郎は信長から小袖を賜ったと記されています。
ならば大坂城天守の巨大紋章群の場合、果たして木彫なのか? 錺金具の応用なのか? と問われますと、それを判断できる直接的な史料は見当たらないようですが、ただし紋は「壁」そのものに取り付けられた例はあまり一般的でないようで、その点では注意が必要でしょう。
つまり建物に「紋」がつくのは大抵、門扉、破風、瓦、幕、提灯といった箇所になりがちで、醍醐寺三宝院も門扉であり、その例に漏れません。
年代を問わずに、色々と挙げてみますと…
―――ということで、巨大紋章群の位置も「壁」ではない、と考えた場合、ここで大きなヒントになるのが、ルイス・フロイスの見聞録にある“秀吉が大坂城天守の戸や窓を自分の手で開いて行った”という記述だと思われます。
これは前述のフロイスら宣教師など三十人余りが大坂城を訪問したおりのことで、城内で“頭を打ちそうな桁(けた)”と言えば、まさに天守や櫓の階段部分であることは、お城ファンならすぐに思い当たるでしょう。
そして秀吉と一行がわざわざ天守に登閣するのですから、いきなり真っ暗な天守内にゾロゾロ上がっていったとは思えず、事前に窓を開け放つなどの準備は、当然、ぬかりなく行われていたはずです。
にも関わらず、秀吉が自ら開ける箇所を “残していた” というのは、そこに一行の話題となる何か(興味の対象)があったとも想像できます。
なおかつ、その箇所が秀吉一人では作業が危ういほど重いもの(例えば巨大な木彫が外面に取り付けられた突上戸など)であったはずはありません。
このように考えた時ふと想起されるのが、愛知県の国宝・犬山城天守にある左右両開きの窓です。左右の戸は止め金等でフックするだけの構造であり、秀吉一人でも自在に開け閉めできる類いのものです。
そして「一行の興味を引いた何か」がここにあったとすると、黄金の紋章群は“大型の扉金具”ではなかったか、とも考えられそうです。
つまり紋章は、止め金と一体化して左右の戸に打たれた錺金具であり、その窓を開ける動作を外から見ると、巨大な紋章が真っ二つに割れ、閉めるとぴったり元の紋章に一体化するといった「面白い」(かつ不敬な感さえある)仕掛けだったのではないでしょうか。類似の例としては、これは全く時代や意図の異なる錺金具ですが、成田山新勝寺の開山堂などにもそうしたものが見られます。
やや手前勝手な「空想」を申し上げてしまったのかもしれませんが、想像しますに、そんな仕掛けを宣教師らの前で得意げに開け閉めしてみせる秀吉の表情が、まぶたの裏にありありと思い浮かぶのは何故でしょうか。
かくして大坂の地に出現した黄金天守は、当時の人々に強烈なインパクトを与えました。
フロイス自身は「望楼廓壁は巍然として高く聳え金属目を眩じ遠くより能く之を望み得べし」(太田正雄訳)とオルガンティーノに書き送り、1689年にジャン・クラセが編纂した『日本西教史』では「地の太陽は殆ど天の太陽を暗くすると言へる如く、光輝爛々たる者なり」(太政官翻訳1931年刊行版)と伝えています。
ここまで申し上げて来たように、この建物は、秀吉が狙った国家総動員体制を煽動していた疑いが濃厚でしょう。そもそも「天守」とは、そうした政治体制の刷新を領民に視覚化して見せるためのモニュメントであった、というのが当シリーズの主張でありまして、秀吉の新天守はその白眉とされるべき傑作だったのです。
ここからの第三部では、秀吉創建天守の構造を究明するうえで重要な、しかもこれまで一度も指摘されて来なかった諸要素をご紹介いたします。
さて、秀吉の天守の大きな特徴として、「入母屋屋根を三段に重ねた」構造であることが度々指摘されて来ました。その強い影響は、豊臣大名の熊本城天守や岡山城天守はもちろん、実は、他の徳川ゆかりの天守にまで及んでいて、その興味深い例が、世界遺産の姫路城の大天守です。
これは両者の「破風の配置方法」を比べた略図ですが、ご注目頂きたいのは、左図の入母屋屋根の赤い妻側破風が、右図では最上重ばかりでなく、四重目の屋根においても「唐破風に変化」している点なのです。
これは従来、直下の大入母屋屋根を「受ける」デザインなのだと説明されて来ましたが、このように天守全体の破風の配置をトータルに比較してみれば、当サイトのリポート前説でご紹介した【唐破風の用法】が“援用されている”ことに気が付くでしょう。
リポート前説においては、望楼型天守にとって最上重の入母屋破風は「正面の目印」であり、それが層塔型天守では屋根が90度回転してしまうため、その「代用品」として唐破風が採用された可能性を申し上げました。
そして姫路城大天守の場合、秀吉の天守に比べますと、層塔型に近づくため、最上重ばかりでなく、中層でも入母屋屋根をもう一段省略する形になります。そこで、その省略を示す「方便」として、失われる入母屋破風を代用する唐破風が、四重目にも据えられたわけなのです。
これと同様の操作は、例えば元和の淀城天守、小田原城天守、加納城御三階など、数々の徳川期の天守でも繰り返されることになり、これらはすべて、秀吉創建天守の「入母屋屋根の三段重ね」が、後々の時代にまで影響を及ぼした結果(要素)だと申し上げたいのです。
ご覧の彦根城天守もまったく同じことで、唐破風の配置には「理由」と「由来」があるのです。
そのうえ秀吉の天守は、織田信長の安土城天主で有名な「八角」に関連しても、多くの天守に強い影響を与えました。
と申しますのは、前出の『京大坂祭礼図屏風』(個人蔵)に描かれた大坂城天守は、三重目と五重目の下部に「腰組み」(組み物による支えの意匠)が廻っています。これが正しい描写であるなら、この天守の望楼は五重目だけでなく、三重目の南北面もある種の「望楼」であった可能性があります。
ひるがえって、後々の天守に大変多く見られる構造が、屋根上の「張り出し」です。例えば右上写真の岡山城天守の三重目で(左に)張り出した部分ですが、これは大屋根の屋根裏階の眺望を得るため、階を部分的に大屋根の外にせり出して、窓と覆い屋根を設けたものです。
で、おそらくは大坂城天守の三重目もこの「張り出し」に相当し、しかも腰組みで飾られて、より際立った外観に仕立てられていたのでしょう。
そこで試しに、この張り出しのある階とは、一般にどのような平面形をしていたのか、次の図をご覧下さい。
階全体は十字形というか、赤十字マークのような形をしています。で、この形を的確に表現できる「日本語」は意外にも無いようです。
すると、それは必ずしも現代に限ったことでなく、ひょっとすると信長や秀吉の時代もそうであったかもしれない、と考えた時、ある大きな疑問が浮上します。
と申しますのは、この形、「角」が「八つ」突出しているため、便宜的に「八角」と呼んだことはなかったのだろうか?? という疑問なのです。
例えば、八つの角をもった建築は中国大陸に多くの事例があり、杜甫の「岳陽楼に登る」の詩で有名な岳陽楼は、京都御所の御学問所の襖絵(江戸期の原在照筆)でもその姿がよく知られています。また中国河北省石家荘の毘廬寺(びるじ)正殿も十字形の平面ですが、「五花八角殿」との異名があります。
さらに有名な武漢の「黄鶴楼」をはじめ、四方に部屋(中国建築の用語で「抱廈」)を張り出した手法は、より複雑さを増しながら、城壁の角楼や苑内の亭など、眺望を第一とする建築に特有の様式として普及しました。
我が国の天守の「張り出し」にはこれほどの複雑さはありませんが、この中国建築の「抱廈(ほうか)」は、屋内から外気にでる間の別空間を意味し、そのバルコニー的な意味合いは共通していたのかもしれません。
したがって十字形の八つ角のある平面は、「眺望」と大変に縁の深い形であったと言えそうなのです。当サイトではこの形を、仮に「十字形八角平面」と呼ぶことにしています。
そして一方、幻の安土城天主の復元においては、城郭研究史上の名だたる先生方は殆ど、六重目の「八角」(『信長公記』)を「八角円堂」であると解釈して来られました。八角円堂とは、ご承知のように正八角形の平面をもつ建築であり、古来、アジアでは供養塔などに使われる場合が多かったものです。ですから信長の安土城天主は、何故か、そうした八角円堂を最上階望楼の直下に組み込んでいたことになります。
安土城天主には八角円堂があった―――この天守研究における“定説中の定説”には、もはや異を唱えるのも並大抵ではないのですが、ここでは試しに、天守の歴史における「八角円堂」の出現例と、張り出し等による「十字形八角平面」の出現例の頻度とを、比べてご覧頂きたいと存じます。
当リポートが申し上げたい意図は、上記の表で一目瞭然でしょう。
右の「十字形八角平面」は、実際には、この何倍かの事例が歴史上に存在したのではないかとも思われます。ですから最低限申し上げられることは、天守の歴史において“頻発”したのは、大坂城天守を一つの原点とした「十字形八角平面」であり、八つの角をもつ平面としては圧倒的に主流を占めていたという事実なのです。
ですから秀吉の天守は、眺望に適した第二の望楼として、秀吉流「八角ノ段」(天正記の「四方八角」)を具体化し、それが諸大名の天守に「張り出し」という形で普及して行ったと考えるなら、大坂城天守というのは、建築の構造において(安土城天主に勝るとも劣らない)強烈な影響力を放ったエポックメイキングな建物であったと申し上げるべきなのです。
今回のリポートでは、天下人・豊臣秀吉の天守は「丈間(十尺間)」で建てられたのではないか? という仮説を大胆に立てて、それを検証してまいりました。
その過程で浮上した数々の「符号」と、それが示す「破格の天守」は、日本の伝統建築の常識に真っ向からあらがうものです。
ですが、それはひとえに、秀吉という下層階級から出た稀有な人物が、火急に政権の足固めを行うために、手段を選ばぬ所業に出た結果でもあり、そうした特殊な政治的要請から産まれた「日本建築史上のキメラ(変異体)」であったとも申せましょう。
しかしそれこそが「天守」本来の姿でもあったのではないでしょうか。天守はその出現から衰微までがわずか数十年だったとも言われ、そうした建築の背景に恣意的な、政治的な企図が介在しただろうことは今更申し上げるまでもありません。
そしてその後も秀吉は、各地に築いた居城において、絢爛のドグマを反復するかのごとき天守群を建て続け、終生、人々の目を惑わし続けたのです。…
では以上で、このリポートを終えさせて頂きます。次回リポート「秀吉の大坂城・後篇」は、当初の大坂築城が想定していた未完の構想(「難波のことは夢のまた夢」の真意)や、その中での秀吉創建天守の位置づけや様相を色々とご覧いただく予定です。
作画と著述:横手聡
※2016年3月30日補筆 / この天守の各階の想定については、こちらのブログ記事でご覧いただけます。