昨年秋、天寿をまっとうされた内藤昌(ないとう あきら)先生は、徳川家康が慶長12年(1607年)、東国大名に天守台を築かせて建造した天守、いわゆる“江戸城の三代天守”の初代について、ご覧のような環立式(連立式)であった点に注目されました。
内藤先生が注目された「環立式の天守丸」とは、家康時代と言われる城絵図を参照しますと、本丸中央の西寄りにその形がくっきりと描かれています。その形から考えて、真東から眺めた様子はまさにイラストのようであり、おそらくはどの方角から眺めても、大天守のまわりに小天守や櫓群が重なって見えたはずでしょう。
さて、狩野探幽(かのう たんゆう/江戸初期の狩野一門の総帥)が絵を担当した「東照社縁起絵巻」(とうしょうしゃえんぎえまき/以下、日光探幽本と呼ぶ)全5巻の中には、ご覧の駿府城天守とされる絵があります。
また、住吉如慶(すみよし じょけい/住吉派の祖)が描いたのは、ほぼ同時期に和歌山東照宮に奉納された縁起絵巻で(以下、当リポートでは紀州如慶本と呼ぶ)、ここにも巻中の同じ辺りに、駿府城天守とされる、四重?の天守のまわりを櫓群が囲んだ絵があります。
この東照社縁起絵巻というのは、三代将軍・徳川家光が日光東照宮を、現在見られる華やかな社殿に造替(寛永の大造替)するにあたって、東照宮の由来を語る縁起絵巻として製作させたものです。
内容は寺社の縁起絵巻(えんぎえまき)の基本的なパターンどおりに、前半が寺社にまつられた偉人の生涯(徳川家康一代記)、後半が寺社の建立や功徳(東照宮創建から寛永の大造替まで)となっています。
そして特筆すべきは、絵と交互にある詞書(ことばがき)の撰述など、製作全体をリードしたのが、あの天海(てんかい/南光坊天海 智楽院)であったことで、なおかつ中身の草案は将軍家光はもちろん、徳川御三家や幕閣の度々のチェックを受けて出来上がったものです。
ご覧の巻第二 第五段「相国宣下」の絵は、大御所家康が死の直前に朝廷から太政大臣に任ぜられ、その勅使ら一行を駿府城において家康と二代将軍秀忠がもてなす場面であり、これに続く巻末に、やや唐突に、付け足しか余韻のごとく、問題の描写が庭先の遠景のように添えられています。
ただし、これは当絵巻中で唯一の天守の絵であり、その点では“家康一代記”をしめくくる重要な位置に置かれた天守と言えなくもありません。
そしていっそう肝心なポイントは、このように直前の右側に駿府城内の場面があるため、この天守も当然「駿府城天守なのだろう」とされて来ただけであって、この画題が「駿府城天守だ」と記した当時の文献は、一つも伝わっていないという点です。
それに加えて『当代記』等の文献にある駿府城天守の記録と、問題の描写が“ややマッチしない”という悪条件もあって、これまでに諸先生方が様々な復元案を提示して来られたという経緯があります。
ところが最近になって、問題の描写は “絵師が違っても縁起絵巻の描写が似ているから駿府城天守として信憑性がある” などという、まことに意外な言説が新聞報道にのったりして大変に驚いております。
ここは一番、混乱しかけた状況をスッパリと整理するためにも、自分がかねてから感じて来ました <東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか> という大胆仮説を、いくつかの状況証拠と共に披露させていただきます。
ということで、今回のリポートは第1部が 「神話と江戸幕府の威光を二重写しにした絵巻のトリック」 、第2部が 「唐破風天守が示した関東武家政権へのレジームチェンジ」 という二部構成でご覧いただきましょう。
(※注 : 第1部は「城の話題」というよりも「絵巻の分析」ばかりですので、それがわずらわしい方は、どうぞ“斜め読み”で飛ばしてご覧下さい)
ご覧のとおり、東照社縁起絵巻の江戸初期の諸本は、構図の左右が逆になるケースなどはあっても、最後の結論である各地の東照宮の紹介以外は、基本的にほぼ同じ構成や図様が踏襲されているわけで、「絵師が違っても天守の描写が似ている」のは至極、当たり前なのだ(!…)ということがお判りでしょうか。
しかもそうした上で、特に日光探幽本は、古来の名品と言われる縁起絵巻の図様を、数多く「引用」して出来上がっていることも、長年の絵巻研究の中で判明しているそうです。
平泉澄先生、土居次義先生、畑麗先生といった方々の研究の結果、日光探幽本の25段の絵のうち16箇所がこうした「引用」で描かれているとのことです。
その理由については、「先行絵巻の方法を周到に選り分け、新しい<国家神>東照大権現のための神話を編み出す」(松島仁『徳川将軍権力と狩野派絵画』2011年)といった見方もあり、実際に江戸時代、諸大名は日光社参の時にはこの絵巻を見ることが常とされ、言うなれば徳川幕藩体制の視覚的なバイブルになっていたわけです。
ですから、そのような幕府権威の創出に関わった絵巻は、現代人の思うリアリズムで描かれたとは限らないわけで、そうであるなら“問題の描写”はどこから、どのように「引用」され「踏襲」されたのか? というスタンスで眺めることが不可欠なのだと申し上げざるをえません。
この絵巻がいつごろ作られたかと申しますと、前出の鎌田純子先生の論考(『名古屋東照宮蔵「東照宮縁起絵巻」の製作背景について』)によれば、江戸時代に次の8本が確認できるそうです。奉納された年代順に並べますと…
まずもって意外なのは、冒頭から話題の日光探幽本よりも、さらに早い時期に「仙波東照宮本」という、住吉如慶が描いて川越の仙波東照宮に奉納されたものが先に成立していた可能性がある点です。(以下、仙波如慶本と呼ぶ)
しかも、それは早くも寛永15年の火災で焼失したのか行方不明のままで、もしもそこで消えたとなりますと、ちょうど日光探幽本の完成と微妙にダブっている(!…)点も気になります。
ちなみに仙波東照宮とは、天海が住職であった喜多院の境内に創建された東照宮であり、そして住吉如慶はその天海が画才を高く評価していて抜擢したそうです。
前出の土居次義先生によりますと、如慶は慶長3年の生まれ(探幽の4歳年上)で、幼時から堺で土佐光吉に絵を学び、その後は京都で活動したのち…
「天海僧正の招きにより東照宮縁起の制作のため寛永二年(一六二五)に関東に下った。もっとも、これより先、家康の存命中にやはり天海僧正の斡旋で面謁を許されたという所伝もある」(土居次義『江戸のやまと絵』)
ということですから、要するに、天海は先に如慶を抜擢して、より身近な仙波東照宮で縁起絵巻を作り始めたものの、将軍家光が日光東照宮の「寛永の大造替」を発令すると、それに合わせた絵巻では“究極の権威づけ”を迫られた、という経緯であったようです。
そこで、絵師は当代随一の狩野探幽に依頼し、その探幽のために、名品として名高い「融通念仏縁起(ゆうづうねんぶつえんぎ)」の“超豪華本”清涼寺本と、同じく清涼寺所蔵の「釈迦堂縁起(しゃかどうえんぎ)」(前出/狩野元信筆)を取り寄せて、探幽に貸し与えたことが判明しています。
その辺りの動きを年表にまとめますと、ちょうどこの頃、江戸幕府を悩ませていた将軍家光の弟 “駿河大納言” 徳川忠長(とくがわ ただなが)の事件が、暗い影を落としていたことは見逃せません。
ご承知のとおり、ちょっと数えただけでも世継ぎに並び立つ弟が殺された話は幾つもあったわけですが、もはや下克上の気風を消し去りたい江戸初期のこの寛永年間に、将軍家光を盛り立てるべき幕府が、ちょうど日光に奉納しようという絵巻に、わざわざ「駿府城天守」を描き添えることを許しただろうか…
特に年表のとおり、行方不明の仙波如慶本は、駿河大納言のもとにも諸大名が通い始めた時期に製作されていたわけで、そこに描かれる唯一の天守として「駿府城天守」が選ばれることは、政治的に見れば、そうとうに難しかったのではないかと思えてなりません。
むしろ選ばれるべきは… というか、日光本の方の製作を命じた将軍家光の立場としては、もっと「別の城」が描かれることを当然のように期待していたのは明々白々であり、そうした意をくむことの出来ない天海らではなかったはずでしょう。
そこでもう一度、狩野探幽が描いた「霊夢」の場面をご覧下さい。そして一方、住吉如慶の描いた「霊夢」が下の二枚になります。(左:紀州如慶本/右:旧岡山如慶本)
一見してお分かりのとおり、探幽の「霊夢」は(前述のとおり名品の引用で)薬師如来の乗る瑞雲が曲線的な描き方ですが、その下の如慶の絵はどちらも直線的である点が際立っています。この直線的な表現はなにかの影響か… という観点で、関連する絵巻群をあたってみますと、すぐにそれと分かる、ほぼ唯一の類似表現が見つかります。
先ほど申し上げた、天海が探幽に貸し与えた「融通念仏縁起」とは、実は木版による版本を含めて、他の縁起絵巻とはケタ違いに多数の諸本が製作されました。そしてその諸本すべてに共通した手法として、阿弥陀如来の放つ光明が「直線的に」描かれているのです。
そうした融通念仏縁起の中で、上の写真のシカゴ美術館(上巻)本・クリーブランド美術館(下巻)本は、巻末の年紀で現存最古のものであり、そしてなんと!探幽の弟・狩野安信(かのう やすのぶ)の極書が付いているのです。
極書とは鑑定書のことでして、安信はこれの絵師を土佐光信だと鑑定しているわけですが、狩野安信について朝日日本歴史人物事典では…
「江戸前期の画家。通称右京進、号永真。狩野孝信の3男として京都に生まれ、宗家の貞信が早世したため、養子となり宗家を継ぐ。寛永年間(1624〜44)江戸中橋に屋敷を拝領し、幕府御用絵師となり、中橋狩野家を開いた。江戸城や禁裏などの襖絵制作に参加。寛文2(1662)年法眼となる。兄探幽の画法を踏襲するが、技量は若干劣る」(以下略)
などと紹介されていて、とにかくここで申し上げたいのは、このシカゴ美術館・クリーブランド美術館本は、江戸初期には決して人知れぬ山奥の寺などではなく、今回の登場実物らが接触しうる範囲内(江戸か京都の寺?)にあったことだけは、間違いなさそうだという点なのです。
そこで、この絵巻の描写に一段と目を凝らしますと、そこに問題の「城」の描写の原典が見えるのです…
この絵巻の前半(融通念仏宗の開祖・良忍上人の一代記)の中心的なストーリーになっているのが、良忍上人を訪ねてきた青衣の壮年僧が、実は毘沙門天(びしゃもんてん)の化身であり、その毘沙門天によって良忍上人は、梵天・帝釈天など多くの神々が融通念仏を唱える誓約をした「神名帳」を得ることが出来た、というエピソードです。
牛若丸伝説などでも有名な鞍馬寺(くらまでら)は、歴史的には天台宗の寺(※天海も天台僧!)であり、京都の北に位置して来たため、本尊はもともと毘沙門天(四天王のうち北方を守護する武神、別名「多聞天」)であったそうです。
ですから、絵巻のストーリー設定はその部分(毘沙門天と鞍馬寺の関わり)では違和感もないわけで、毘沙門天が飛翔して寺に戻ると、通夜念仏を行っていた良忍上人の前に姿を現して、神名帳の巻物を授けるという話なのです。
で、その場面が、問題の東照社縁起絵巻の描写と、画面の配置がたいへん良く似ているのです。!!
ご覧のとおり、一代記のクライマックスに当たる建物内部(鞍馬寺と駿府城)と、それに続く余韻のような建物外観の描写があって、しかも両者ともこのすぐ後で、主人公の死去の場面が来る形になっているのです。
それにしても何故、ここで鞍馬寺と駿府城を、似たような画面の配置で描いたのでしょうか?
その辺りの背景を邪推すれば、おそらくは鞍馬寺本尊の「北方を守護する武神」としての位置づけを、江戸の北方「川越」の仙波東照宮の縁起絵巻にも、秘かに描き込みたい(…)という、天海の目論見があったのではないでしょうか。
ひょっとするとそこには、天海によって引き起こされた宗派内の主導権争い(※天海は関東の天台宗を上方から独立させた)も関係していたかもしれませんが、一つの憶測として、天海は最初に仙波東照宮で絵巻を作り始めた時、如慶にまず融通念仏縁起を与えて研究させることで、そうしたねらいを真っ先に絵巻に封入していた疑いが浮上して来るのです。
こういう風に並べてみて初めて現代人は気づくわけですが、「踏襲と引用」という縁起絵巻の常套手段が、ここでは逆に、都合のいいトリックに利用された疑いがあるわけでして、これで天海らは、発注者の(忠長事件で動揺している)江戸幕府の幕閣らを納得させたのではなかったか? という推理もおそらく成り立つのではないでしょうか。
そして(※これは次章のテーマですが)この絵巻の天守がいかにも、家康の江戸城天守(慶長度)の特徴をぞんぶんに備えていたのなら、幕閣の誰もが、それに異を唱えることは無かったはずです。
と、ここまで申し上げて来たように、やはり“問題の描写”についても、我が国の絵巻研究の成果を踏まえた眼で検証すべきであり、家康一代記の「余韻」にはそれにふさわしい工夫 = 神話と江戸幕府の威光が“二重写し”になっているように感じられるのです。
ではここで、冒頭の城絵図(『極秘諸国城図』江戸城絵図)をかぶせた地図をもう一度、確認いただきますと…
お感じのとおり、真西から眺めた江戸城天守の景観は、大天守と櫓(小天守)の重なり具合など、問題の描写とかなり合致しそうです。そして一方の駿府城天守にも天守曲輪はありましたが、下図のように城絵図を並べて、あえてどちらかを挙げるとするなら、むしろ江戸城の方がピッタリではないかとも思えて来ます。
また、問題の描写が江戸城天守だとしますと、諸書でよく見かける“鉛瓦(なまりがわら)と白漆喰の総塗り籠め壁で、全身真っ白だった”という話と矛盾してしまうでしょう。
そこで、この話の“原典”を確認しますと、例えば三浦浄心の『慶長見聞集』の「江戸町瓦ふきの事」という文章ですが、これは江戸の町家が瓦葺きに変わるまでを伝えたものです。
その文章では、表側の屋根を瓦葺きに、裏側を板葺きにして「半瓦弥次兵衛」と呼ばれた男のエピソードなどがあった上で…
「家康公興せらるゝ江城の殿主は五重鉛瓦にてふき給ふ。富士山にならひ雲の嶺にそびへ、夏も雪かと見えて面白し。今は江戸町さかへ皆瓦ふきとなる」
という風に、あくまでも「瓦屋根」の話に終始していて、外壁の色については必ずしも言及しておらず、厳密には“江戸城天守は鉛瓦が白いので夏でも雪が積もっているように見えた”と、江戸の瓦屋根についてのエピソードを書いているに過ぎません。
さらに同じ三浦浄心の『見聞軍抄』の「鶴岡八幡宮立始のこと 付 武蔵に石山つき給ふ事」という題目の文章ですが、これは鶴岡八幡宮の由来に始まり、家康が社参の帰りに舟で江戸に向かう時、武蔵国は航行の目印になる山が少なくて「不便だろう」と言い出し、そのために江戸城に高大な石垣(「石山」)を築かせたのだ(…!?)、という内容の文章です。その文中で…
「慶長十一午の年。武蔵野に、石山を、つき上られたり。其上に、御座所。金殿玉殿、いらかを、ならべ。扨又(さてまた)、殿主ハ、雲井にそびえて。おびたゝ゛しく。なまりがハらを、ふき給へば。雪山のごとし。相模。安房。上総。下総の海上より。此(この)山を目がけて、舟を乗。よろこぶ事かぎりなかりけり」
という風に、こちらは「石山の高さ」が主題になっているわけで、文中に「雪山のごとし」とあっても、それは主に「山」のごとき高さを言いたかったのであり、厳密に読み取るならば、鉛瓦で所々雪をかぶった山のように見えたのか、全身が真っ白だったのかは、この文章からは特定できないのです。
では、いったいどこから「壁も白漆喰の総塗り籠めだった」という話が始まったのかと言えば、どうやら、かの宮上茂隆先生の有名な復元案が、世の中に強いインパクトを与えたことにあったようです。しかも当の宮上先生は…
という風に、“直接的な証拠”は何も挙げておられないのです。
となれば、結局のところ、問題の描写は、文献そのものとは矛盾しないわけで、この点での支障は無いものと申し上げて構わないでしょう。
そしてもう一つの疑問として、鉛瓦が白く変色するまで数年かかる、と言われますが、そういう時間的な観点から見た場合、問題の描写は屋根の大棟や降り棟の瓦しか白く描いておらず、鉛瓦であったなら、完成からあまり年月を経ていないと考えるしかありません。
では、そういうタイミングでの描画が可能だったかと申しますと、狩野探幽の場合は、江戸で二代将軍秀忠に謁見したのが慶長17年ですからギリギリのところでして、一方、4歳年上の住吉如慶がいつ頃、家康に謁見できたか否かが、この件の分かれ目と言えそうです。
さて、諸先生方による江戸城(慶長度)天守の復元案が、中井家蔵「江戸御城御天守絵図」の扱い方で根本的な違いを生じて来たことは、当リポートの直前のブログでご紹介したばかりです。そしてもう一つ忘れてならないのが、諸先生方の復元においても、言葉の意味が未解明のままになっている重要なキーワード、『愚子見記』の「権現様御好(ごんげんさま おこのみ)」でしょう。
ご存じ、法隆寺大工の出身で、中井家の配下だった平政隆(今奥政隆)の『愚子見記』第五冊「屋舎城郭」には、幕府直営の天守ほかの記述があって、ご覧の部分は家康の慶長度天守についての数少ない貴重な証言です。
特に上記の部分は、家康の天守も、三代目の寛永度天守に匹敵する規模をもっていたことが判る一方で、最後の「是権現様御好也」(これ ごんげんさま おこのみ なり)が具体的に何を指した言葉なのかは、今なお特定しきれないままになっています。
と申しますのも、例えば、その直前の「廿二間半」という高さ(巨大さ)が「家康の好みだった」という解釈では、この記述の後の方で、二代将軍秀忠の元和度天守についても「台徳院様御好也」(たいとくいんさま おこのみ なり)と書かれていることとバッティングしてしまうからです。
すなわち、秀忠時代の天守も、諸先生方の復元では、「巨大さ」は初代や三代目とさほど変わらなかったとされているからです。
では、いったい「権現様御好」とはどういう意味だったのか――
この謎を解く近道は、すなおに、古語辞典を引いてみることではないでしょうか。(!!)
このように古語の「好み」には、「趣味・嗜好」という意味と「注文」という意味の二種類があったわけで、したがって「権現様御好」は、必ずしも家康個人の趣味・嗜好だったとは限らないのではないでしょうか。
特にこのように意味がはっきりしない現状では、二分の一の確率で「注文」であった可能性もあるのであり、そうしますと「権現様御好」は例えば「家康が注文した特注仕様」といった意味であったのかもしれません。
そこで問題の描写をもう一度見直していただきますと、ご覧のとおり(白漆喰の総塗り込めでない点を除けば)問題の描写の窓は、名古屋城天守の最上階に酷似した造りで描かれています。
名古屋城の方の窓は、それまでの望楼型天守が最上階のみ柱を見せた真壁造りにしたり、高欄廻縁を設けたりしたことを受けて、そうした最上階の格式を層塔型天守で表現するための意匠であったとも言われます。
そしてそれに似た意匠が、問題の天守では、上から三重分にわたって施されているわけです。
しかもご丁寧に、日光探幽本では、上から三重目に高欄廻縁が“特設”されていたり、各重の破風は、窓の眺望を極力さえぎらない小型サイズに押さえられたり、といった配慮が行き届いているのです。
このような描写をどう解釈すべきか?と想像力をめぐらせますと、問題の描写の天守は、高欄から上の階がすべて <最上階と同じ扱いの物見> だったのではないか? という疑いが浮上して来るのです。
そして前出の『愚子見記』に戻っていただきますと、先ほどの江戸城天守の記述の直後には、名古屋城天守と比較した文言が続いています。
上記の最後の行は、要するに、江戸城天守の初重が名古屋城より大きいのに、最上重(「物見」)は逆に小さくなっていることの理由として、江戸城天守は名古屋城と違って、各重がきちんと逓減(ていげん)する、いっそう整然とした層塔型の天守だからである、という事情を書き添えたものです。
ただし、諸先生方の復元案ですと、この最後の行の書き込みを“無視”された復元が多いわけですが、これがもし“推測の補筆”に過ぎないのだとするなら、初重と最上重の規模が逆転してこの値になったのは何故なのか、その原因について、多少なりとも触れた案は、層塔型を主張された宮上茂隆先生(「七間五尺」の件)以外にはいらっしゃらない、というのも、やや腑に落ちない点です。
ということで、当リポートはあくまでも、現状の『愚子見記』の記述はすべて尊重するというスタンス(=層塔型!)でつらぬくとしまして、その上でさらに、問題の描写が家康の江戸城天守であるという仮定を上乗せした場合、そこから見えて来る天守の姿は、次のようなものではないでしょうか。
――!… こちらから絵をお見せしておいて、こう申し上げるのはなんですが、これではちょっと異様と申しますか、デザインの意図が判らないと申しますか、特に高欄廻縁の位置が中途半端のようで、どうも妙な印象になってしまいます。
ここで是非ともご覧いただきたいのが、かつて松岡利郎先生が『歴史と旅』誌上で指摘された事柄です。
という風に、松岡先生は家康と四重天守との浅からぬ縁を述べておられます。
文中の登場人物に注目しますと、まず戸田一西(とだ かずあき)は、秀忠の関ヶ原遅参の原因・上田城攻めにただ一人反対したことを家康に賞された人物であり、また松平忠良(ただよし)は、関ヶ原戦で江戸城の留守居役だった松平康元の長男(慶長8年に跡目相続)であり、そして結城秀康(ゆうき ひでやす)は秀忠の異母兄として存在感を示し続けた人物です。
このようにして見ますと、どこか二代将軍秀忠に対する「重石(おもし)」のような役回りを果たした人物たちで、彼らがそろって「四重天守」を築いたのはなかなか面白い共通点でしょう。
一方、駿府城天守が五重七階建てであったことは、『当代記』等の文献からほぼ確実視されています。
それに対して、肝腎の江戸城天守の方は、前出の『慶長見聞集』に五重、『毛利家四代実録考証論断』に七重、『日本西教史』に九重と書かれるなどバラバラの状態で、特に幕府や大工棟梁の文書類に重数が記されなかったのは、ちょっと奇異な感じもします。
そうした中で問題の描写は、一見したところ四重天守(「死」重天守…)のように描いてあって、これが駿府城にせよ江戸城にせよ、東照宮に奉納する歴史的な絵巻において、本来の五重天守を“四重のごとく”描く度胸が絵師らにあったただろうか、という点もたいへん気になる部分です。
と、ここまで申し上げた全ての条件を踏まえますと…
!! 手前勝手な妄想はやめろっ…という罵声も聞こえそうですが、誠に恐縮ながら、この件は当サイトがスタートする以前から、いつか必ず申し上げねば、と練り上げてきた仮説なのです。
すなわち、ご覧のような四重天守であれば、高齢で太った家康でも登りやすい階に「最上階と同格の物見」を設けることが出来るうえ、なおかつ史上最大規模の巨大天守としても建造できる、という大きなメリットが得られたのではないか、というものです。
そしてこのような特異な構造から、木造部分の内部は合計で「七階建て」になっていたようにも思われ、前述の『毛利家四代実録考証論断』に七重、『日本西教史』に九重と記されたのも、決して故無きことではなかったように感じております。
と申しますのは、上三重がすべて「物見」だったとしますと、最上階「物見」の直下には屋根裏階を設けるという、姫路城大天守の上層部分にも見られる手法(≒作法か)が、「同格の物見」という大前提のために三回繰り返されて、それらを積み上げた結果、22間半という当時史上最大の高さがもたらされ、それが三代にわたる規定値(…寛永度のむやみに高い階高!)になったのではないのかと。
そしてご覧のとおり、天守台は(直前のブログ記事のごとく)最初は半地下式の穴倉でいったん完成したものを、新たな「注文」で天守初重に石落し構造を設けるため、わざわざ石垣を築き直したものと思われます。
それはひょっとすると、以前のブログ記事で「徳川系の天守か」と申し上げた熊本城大天守の石落し構造に、それを伝え聞いた家康が興味を示した、ということであったのかもしれません。
で、以上の結論としまして、これら四重天守の屋根や腰庇(こしびさし)について、前出の三浦浄心は、白い瓦屋根に注目し過ぎたためか「五重」と見誤ったのでは… という想像力が働くわけなのです。
さて、『愚子見記』にはもう一つ、たいへんに重要な文言が記されています。
ご覧の一、二行目は、この文章の書かれた寛文11年が、権現様(家康)の江戸城天守が建造された慶長11年から数えて65年目にあたるという意味ですが、問題は三行目の「古鎌倉に凖(じゅん)ずとなり」という文言です。
これは家康の天守が「古鎌倉」、すなわち源頼朝(みなもとの よりとも)が幕府を開いた鎌倉に準じた建造物である、という貴重な証言なのですが、その具体的な意味はまったく未解明のままになっています。
例えば、内藤昌先生が校注をされた『注釈 愚子見記』(本田博太郎監修/1988年)でも、これについては何ら注釈はなされておりません。しかしこの言葉の解釈こそ、家康の江戸城天守を解明していく上で、非常に大きな命題であることは、間違いのないところでしょう。
そこでまず、安直な連想として、源頼朝・頼家・実朝三代の将軍邸「大倉御所」を考えてみますと、ご承知のように『平家物語』に「十六間」という規模等が伝わるだけで、近年、様々な研究はあるものの、とても江戸時代にそうした詳細が把握されていたとは言えないでしょう。
そこでもっと、分かりきった大要に立ち戻りますと…
「武家の都」鎌倉の地形を頭に入れつつ、家康の江戸城天守があった頃の江戸を想像しますと、日比谷入江から陸に上がって、城の大手門に向かうと、その一直線上の向こうに巨大な天守が、背後に紅葉山を伴いながら建っていた様子が目に浮かぶでしょう。
こうしたグランドデザインは、まさに「古鎌倉に凖ず」と言えたのではないでしょうか。
そして問題の描写が江戸城天守であったなら、正面に見える一番上の屋根には、ひときわ目立つ大ぶりな唐破風が掲げられていたことになります。これは当サイトがずっと申し上げて来た「唐破風天守」の白眉とも言うべき、最も整然とした典型であったのかもしれません。
このような家康の天守と「唐破風」との関わりは(当サイト仮説の豊臣秀頼再建の大坂城天守を含めて)何度も申し上げて来たことですが、おそらくは江戸城天守がその決定版であり、新たな関東武家政権の出現(復活)を人々の目に焼き付けた意匠だったのではないでしょうか。
(※なお図の最下層の腰庇屋根に描いた小さな破風は、石落しとの構造的な関係で、こうでもしなければ穴倉への「採光」が満足に果たせなかったのではないかと想定したものでして、これが紀州如慶本の最下層屋根にかすかに描かれた比翼の破風の正体なのでは、と考えております)
(※2019年2月4日補筆/さらにこの日のブログ記事で、イラストの訂正版を作成しましたのでご参照下さい)
家康は関ヶ原の戦勝後もしばらくは、二条城や伏見城再建など、畿内で城郭(や天守)の築造を進めていたわけで、その頃は天守の分布もまだ畿内から西国が中心であり、当サイトが仮説で申し上げて来た「天守は織豊政権による中央集権国家の樹立と版図を示した革命記念碑」という意味合いも維持されていたはずでしょう。
それをあえて崩す、というねらいが、江戸城天守や駿府城天守、それに続く名古屋城天守には濃密にあったように思われ、要は「重心を東へうつす」と申しますか、「分布をバラけさせる」と申しますか、その後の幕藩体制の分権統治に合うように「天守」を変質させる企てがあったと思われてなりません。
で、私なんぞの根本的な疑問は、元来、“天守などというモノ”の建造に淡白だと言われた家康が、突然、そのように豹変したのは何故だろうか?という点でして、そこにはよく言われる“豊臣秀頼包囲網”といった戦略上の目的よりも、家康のずっと根深い(…)深層心理としては、やはり信長や秀吉と同じく、自身が本当は「貴種」の生まれでない天下人であることへの、かすかな恐れもあったのでは… と感じられるのです。
それでは今回のリポートの最後に、問題の描写が大手門のある東側からでなく、西側から眺めた景観を選んだ理由について… お察しのとおり、それはおそらく、権現様が紅葉山の御霊屋から江戸城を永遠に見守る目線だったのです。
※目下、内容項目を吟味中。