城の再発見!
安土城天主に「八角円堂」は無かった!


2009年7月5日 第35回
安土城天主に「八角円堂」は無かった!

安土城天主CGの一例(復元:佐藤大規)

安土城天守を除いて、八角形の上層部分をもった天守は、いまだかつて伝えられていないし、そのようなものは、今までに認められていない。もし、まことに安土城天守の上層部が八角平面であったとすれば、後世、どこかで、だれかが模倣してもよいはずである。それを範としたと考えられる秀吉の大坂城天守においては、なおさらのことである。
(城戸久『城と民家』1972)

前回もご紹介した、日本の城郭研究のパイオニア・城戸久先生の発言ですが、日本史上、安土城天主のほかに、正八角形(八角円堂)を組み込んだと思しき天守が、一つも無かったことは、ゆるぎない事実です。

ところが、例えば上記CGの復元案には「日本建築の屋根の造り方の常識の内であること」(『よみがえる日本の城 22 安土城』2005)という説明の文言があったりします。

これは一体、どういうことなのでしょう??

今回は、日本の城郭研究者にとって、一種の“トラウマ”ともなっている「安土城天主の八角円堂」問題についてご紹介します。

岡山城天守

さて、ひとまず八角円堂は頭の隅に置きつつ、望楼型天守でかなりポピュラーであった構造物、屋根上の「張り出し」にご注目いただきましょう。

写真の岡山城天守では、下から三重目で手前に張り出した箇所ですが、これは大屋根の屋根裏階の眺望を得るため、階を部分的に大屋根の外にせり出して、窓と覆い屋根を設けたものです。

では試しに、この張り出しのある階とは、一般にどのような平面形をしていたのか、次の図をご覧下さい。

ご覧のとおり、階全体は十字形というか、赤十字マークのような形をしています。で、この形を的確に表現できる「日本語」は意外にも無いようです。

すると、それは必ずしも現代に限ったことでなく、ひょっとすると信長や秀吉の時代もそうであったかもしれない、と考えた時、ある大きな疑問が浮上します。

と申しますのは、この形、「角」が「八つ」突出しているため、便宜的に「八角」と呼んだことはなかったのだろうか?? という疑問なのです。

例えば、八つの角をもった建築は中国大陸に多くの事例があり、杜甫の「岳陽楼に登る」の詩で有名な岳陽楼は、日本では江戸期の襖絵でもよく知られています。

岳陽楼図(原在照筆/京都御所 御学問所)

また現に、中国河北省石家荘の毘廬寺(びるじ)正殿も十字形の平面ですが、「五花八角殿」との異名があります。

さらに有名な武漢の「黄鶴楼」をはじめ、四方に部屋(中国建築の用語で「抱廈/ほうか」)を張り出した手法は、より複雑さを増しながら、城壁の角楼や苑内の亭など、眺望を第一とする建築に特有の様式として大陸各地に普及しました。

   紫禁城角楼(北京市)        東岳廟飛雲楼(山西省)

我が国の天守の「張り出し」にはこれほどの複雑さはありませんが、中国建築の「抱廈」は、屋内と外気との間に設けた別空間を目的とし、そのバルコニー的な意味合いは共通していたのかもしれません。

したがって、十字形に八つの角がある平面は、「眺望」とたいへんに縁の深い形であったと言えそうなのです。

当ブログでは、この形を仮に「十字形八角平面」と呼ぶことにいたします。


そして一方、幻の安土城天主の復元においては、城郭研究史上の名だたる先生方は殆ど、六重目の「八角」(『信長記』類)を「八角円堂」であると解釈して来られました。

八角円堂とは、法隆寺の夢殿のごとく正八角形の平面をした建築であり、古来、アジアでは「故人の供養塔」に使われる場合が多かったものです。
ですから、安土城天主の復元案はいずれも、そうした八角円堂を最上階望楼の直下に組み込んでいることになります。

いったい何故、古今の城郭研究者は、文献中の「八角」を八角円堂と解釈したのでしょうか?

其外部は四方八面よりの美観を保つ為に出来た構造であったものと考へられる。(古川重春『日本城郭考』1974)

…(吉田)兼倶は「神霊管領長上」を自称し、伊勢の神霊が吉田社に移ったとして、京都東山に八角円堂の「大元宮」という新様式の建築を創始する。(中略)五階に八角円堂をもつ安土城天主は、そうした「大元宮」をさらに高層化したものといえよう。(内藤昌『復元・安土城』1994)

八角平面の建物も、もともと道教に由来する形式である。八角と四角の建物を上下に重ねた楼閣は、わが国においては安土城だけであるが、中国においては現存するものだけでも少なくない。(宮上茂隆『歴史群像 名城シリーズ3 安土城』1994)

八角堂構造は、現存する天守や、写真・図面等で形の分かっている失われた天守にも一つもない。あまりに独創的で真似されなかったのだろうか。(香川元太郎『日本の城 古代〜戦国編』1996)


ご覧のように、ここに列記した先生方は、何故「八角」かという理由づけはバラバラですが、その復元案は軒並み「八角円堂」を採用しています。

特に、中世住宅の「間」という言葉は一間×一間の広さ(一坪)を意味した、という野地先生以来の研究を支持した宮上茂隆先生まで、「八角四間程有」の「間」は広さでなく、長さと読んで、八角円堂の“直径”としてしまったのは驚きです。

これはもう、「八角円堂」が城郭研究者にとって、ある種の“トラウマ”になっているのではないか、と思わざるをえない状況です。

安土城天主には八角円堂があった―――この天守研究における“定説中の定説”には、もはや異を唱えるのも並大抵ではないのですが、今回は試しに、天守の歴史における「八角円堂」の出現例と、張り出し等による「十字形八角平面」の出現例の頻度を、比べてご覧頂きたいと存じます。

当ブログが申し上げたい意図は、上の表で一目瞭然でしょう。

右の「十字形八角平面」は、実際には、この何倍かの事例が歴史上に存在したのではないかとも思われます。

ですから最低限申し上げられることは、天守の歴史において頻発したのは、豊臣秀吉の大坂城天守を一つの原点とした「十字形八角平面」であり、“八つの角をもつ平面”としては圧倒的に主流を占めていたという事実です。

おそらくは、第二の望楼として“眺望”にふさわしい様式(「抱廈」)を採用したものであり、それが諸大名の望楼型天守において「張り出し」となり、全国に普及していったのではないかと思われるのです。
(※余談ながら、これは後に層塔型天守にも応用され、例えば寛永度の江戸城天守において、最上階のすぐ下の階で、四方に「張り出し」が設けられたのは、この手法の最終形態だったのかもしれません。)

ですから端的に申せば、「八角」とは、「供養」の場ではなく「眺望」のための場だったのです。

新解釈『天守指図』安土城と豊臣大坂城/二つの天守は相似形だった

この二つの天守が“相似形”だった可能性を考えてみても、やはり、安土城天主には八角円堂は無かった――
日本の城郭研究がトラウマから解き放たれ、こう断言できる日の来ることを願ってやみません。

作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)

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