城の再発見!
続「最後の立体的御殿」…小堀遠州、大久保長安、という思わぬ人物の関与について



2013年7月21日 第154回
続「最後の立体的御殿」…小堀遠州、大久保長安、という思わぬ人物の関与について

破風(はふ)の見本市のような彦根城天守

そもそも天守と言えば、何故これほどまでに「破風」だらけの建物になったのでしょうか…… この素朴な疑問に対する明快な答えは、思えば過去にも殆ど無かったような気がいたします。

で、このことは、当ブログがスタートしたばかりの頃の記事「破風は重要なシグナルを担った」でも一度、扱った問題です。

そして不覚にも、その記事の中であっさりと触れておきながら、今日まで4年以上もほったらかしにしておいた、破風の配置方法に関する「小堀遠州が介在した作意と画期」について、今回、ようやく有態に申し上げられることになりそうです。

それは前回も申し上げた「駿府城天守は実用上の機能が三重目までで完結していた」のならば、四重目以上は何だったのか? という話題が、その説明になりそうだからです。

名古屋市博物館蔵「築城図屏風」より

ご覧の絵はひょっとすると、絵師が駿府城天守の平側の情報(立面図?)だけをもとに、「四方正面」の天守を無理やり描いたものではないのか… という以前に申し上げた“仮説”を、改めて分かりやすくご覧いただくために色を加減してみたものです。

右側のカラーの部分が、立面図などにあった部分ではないかと思われ、こうして見直しますと、一見、複雑きわまりなかった破風の状態も、さほど不自然な配置ではないことが分かって来ます。

破風の配置はまったく同じ手法か/駿府城天守?と名古屋城大天守

ご覧のとおり、左右の天守は、屏風絵の初重の大ぶりな千鳥破風を除けば、まったく同じ手法のもとに配置されたと申し上げてもいいのではないでしょうか。

ちなみに、屏風絵の方がもし駿府城天守だとしますと、左右の城はともに、小堀遠州(こぼり えんしゅう)が作事奉行として築城に関与した城です。

そして何より肝心なのは、これらは、建造の時期から言えば、徳川特有の破風配置の第一号であった可能性でしょう。

これ以前にも破風を多用した天守としては、当サイトが仮に「唐破風天守」と申し上げて来た、加納城天守や姫路城天守(および2012年度リポートの江戸城天守)などもあったわけですが、それらは決して「四方正面」を強調するためのデザインであったとは言えません。

ところが慶長後期に入ると、名古屋城など、徳川幕府が直轄で建造した巨大天守において、平側と妻側にほぼ同数の破風を配置しつつ、二連と単独の高さを互い違いにして美観を高め、それらの効果で「四方正面」をいっそう際立たせた、画期的なデザインが登場しました。

「四方正面」を際立たせた破風の配置/名古屋城大天守(1959年外観復元)

厳密に申せば、この名古屋の築城以前にも、例えば福井城天守や冒頭写真の彦根城天守など、最上重に「唐破風」を設けつつ、それ以下の各重で<似たような配置>を行った例もあったわけですが、写真のような、後の寛永度江戸城天守にもつながる<最も整然とした配置方法>は、ひょっとすると、駿府城天守に始まっていたのではあるまいか… と申し上げたいのです。

そう申し上げる最大の動機は、この件はおのずと、時代が徳川幕藩体制に向かう中で、天守の質的な転換(分権統治の象徴にふさわしい四方正面)をみごとに表現して見せた画期的デザインは、いったい誰の発案だったのか… という一点に集約されると思うからです。

「遠州好み」と言われる桂離宮・松琴亭の市松模様(画面左側)

小堀遠州の作庭 切石の直線・直角で囲んだ仙洞御所の庭(復元/お茶の郷博物館)

(※庭の写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用です)

小堀遠州と言えば、直線的・幾何学的なデザインも大胆に採り入れつつ、江戸初期の建築・庭園・茶道をリードして、いわゆる「綺麗さび」の美を生み出した巨匠として知られています。

そういう小堀遠州が公儀作事奉行として、将軍の居館から内裏や寺社の造営を取り仕切った時代、作事の現場を担った最大のパートナーが、幕府御大工の中井正清と正純の父子であったと言われます。

ならば、駿府城天守の設計者はどちらであったか?と言えば、そこは諸先生方もはっきりとは明言しにくい様子ですが、亡くなった内藤昌先生は「そのデザインは、駿府城の天守奉行小堀作助(のちの遠州)であり、御大工頭が中井正清であったことからも、名古屋城の様式に受け継がれたものと考えられる」(『城の日本史』)とまで言い切っておられました。

かく言う私も、ここまで申し上げた内容から、かつて森蘊(もり おさむ)先生が「時のアイデアマン」と評された小堀遠州の方に、かなり大きなアドバンテージがあると感じられてならないのです。


<文献上にのこる駿府城天守の「四基の隅櫓」
 それは大久保長安が進言した、天守台上?の四つの御金蔵が原点だった>



長安所用の頭巾(南蛮帽子)城上神社蔵/島根県庁ホームページより

さて、大久保長安(おおくぼ ながやす)という人は、東京の八王子に在住の私にとっても、けっこう身近なはず(※市の中心部に長安の陣屋跡あり)なのに、なかなか地元民も話題にしない、黒い大きな影を引きずった人物だという印象があります。

猿楽師の家に生まれながら、金山経営の手腕を買われ、幕府草創期の勘定奉行にまで登りつめ、巨額の財政を取り仕切った長安…。

そんな長安が、駿府城天守の「四基の隅櫓」増築の言い出しっぺだった、という話が『古老夜話』にあり、隅櫓・多聞櫓説を支える重要な文献とされています。

それは慶長13年(火災の翌年)の記述でして、徳川家康が天守を再建したいとの意向を示したところ、「石見(大久保石見守長安)」がすかさず、ある進言をしたという話です。

(『古老夜話』より)

駿河御天守御たて被成度思召候へとも、金銀御不足ゆえ御立不被成、此儀を石見承り、金子差上可申よしにて、三十万枚差上候、御天守と四方に御金くら御建なさる、益なき事と御意なされ候、そこにて石見金子の儀は何程にても差上可申候間、御建可被成よし申上る、殊の外御満足なされ、四方に三かゐの矢倉御たて被成候

この文面によれば、天守再建の財源を案じていた家康に対して、長安が、金子(きんす)「三十万枚」を献上しますので、どうぞ天守と四方の御金蔵をお建て下さい、と進言したところ、家康はそれを「益なき事」と断じたらしいのです。

しかしそこで引き下がっては面目丸つぶれと感じたのか、長安は“何を建てても結構ですから”金子三十万枚は献上します、と再度、進言したところ、家康はとたんに満足して「四方に三かゐの矢倉」を建てた、という経緯だったようなのです。

で、この文面の焦点は、二つあると思われ、一つは「四方に御金くら」が本当に天守台上のことだったのか? という問題であり、もう一つは、この話は最終的に天守の話が消えていて、ただ「四方に三かゐの矢倉」が建つまでの裏話になっている点でしょう。

つまりこの話は、肝心かなめの「御金蔵」や「四方の三階櫓」がどの場所の話なのか、という大切なポイントが、ぼやけているのではないでしょうか。

大阪城にのこる金蔵と復興天守

例えば、当ブログの記事「だから豊臣秀吉の天守は物理的機能が「宝物蔵」だけに!?」でも申し上げたとおり、天守台上に御金蔵を建てる、というのは、そう突飛な話でもなくて、大久保長安の頃までは、天守が御金蔵を兼ねるというのは、ごく自然な姿であったようなのです。

ですが、上記の文面の、御金蔵を「四つ」に分けて、天守のまわりに配置するというのは、いったいどういう意味があったのでしょう。

これはなかなか理解できず、強いて申せば、本丸御殿の火災の直後でしたから、御殿から離れた天守台上に“四つに分散配置”して、天守からの延焼のリスクも軽減するつもりだったのでしょうか。

それにしても(前回の記事のとおり)天守の一階二階は「住宅」建築であったわけですから、どうも話がチグハグというか…  いえ、そういう点を、まさに家康が「益なき事」として却下したのかもしれませんが、いずれにしても、長安の進言を「天守台上の四つの御金蔵」と考えるのは、チョット無理があるように思われてなりません。

むしろ、長安の真意は「金子三十万枚で、天守の再建と、城内の四方に御金蔵を分散して配置されてはいかが…」という意味の提案だったと解釈する方が、現代人の我々にはずっと自然に感じられます。

で、それをまた「益なき事」と断じた家康の考え方も、まぁ分からないではありません。

復元される二ノ丸「坤櫓(ひつじさるやぐら)」完成予想図/静岡市ホームページより

ちなみに二ノ丸の巽櫓・坤櫓・清水隅櫓はいずれも内部三階!だった

以上の結論として、やはり四基の三階櫓というのは、天守台に関わるものではなかったのではないでしょうか。

さらに『古老夜話』を隅櫓・多聞櫓説を支える文献として見た場合には、文章のニュアンスからして、おそらく四基の隅櫓は(完成までに2年は要したはずの)天守よりも、ずっと早くに完成したことになりそうです。

となると、話題の「天守二重目の高欄」は、そういう最中に、もう目の前に櫓群が立ちはだかる状況下で、施工や仕上げ作業が進められたことになるでしょう。

全体の計画がチグハグなのに、管轄の壁が越えられず、個々の作業はそのまま進んでしまう… なんていう話は今でもよくありますが、そんなワビシイ状態のなかで「最後の立体的御殿」は誕生したのでしょうか。

作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)
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