城の再発見!
「最後の立体的御殿」のメカニズム 実用上の機能は三重目までで完結していた?



2013年7月7日 第153回
「最後の立体的御殿」のメカニズム 実用上の機能は三重目までで完結していた?

3月の記事でご覧いただいた「小さなコロンブスの卵」

ご覧の図のように、文献史料にある駿府城天守の各重の規模(桁行・梁間)は、実は六重目だけ、桁行と梁間がひっくり返った形で記述されたのでないか… そう考えた場合は、きれいに文献どおりの「五重七階」で復元できることを申し上げました。

そしてもう一点、是非ともご注目いただきたいのが、文献によって数値が二種類 伝わっている、三重目なのです。

ここは雨戸で閉じ切ることも出来る、半間幅の内縁がめぐっていたのではないか…

これまでにも、この三重目の規模のあいまいさについては、例えば大竹正芳先生をはじめとして、「三階は内側に幅半間の回縁がめぐり、外壁は雨具仕立で高欄が付けられていたとする説もある」(大竹/1994)といった考え方が示されていて、私なんぞもこれに説得力を感じてまいりました。

雨戸というのは、当時、豊臣秀吉などが最新式の建具として使い始めたものとも言われますし、聚楽第大広間の平面図に「雨戸」と書き込まれたり、大坂城二ノ丸の秀長屋敷にもあって、訪れた徳川家康らが雨戸を一斉に閉める音に驚いた、などという伝承もあったりします。

そうした最新式の「雨戸」は、さっそく天守にも、とりわけ風雨がきつい最上階の望楼で重宝されたようで、ご承知のとおり熊本城では、大小天守ともに、最上階はいちばん外側に幅半間ほどの狭い内縁(落縁)がめぐっていて、そこに欄干があり、さらに雨戸を閉められる構造になっていました。

最上階に雨戸の戸袋 / 独立式時代の大天守を推定した当ブログ作画より

これは小倉城天守も同じ形式を(八代城や柳川城も?)採用したようで、やはり半間幅の廻縁高欄の外側を、雨戸がおおう形であったと言います。

しかも小倉城ではこの階を「黒段」と呼び、それは雨戸や戸袋がすべて黒塗りだったため、全部を閉じ切ると、階がまるごと真っ黒に見えたからだそうです。

ひょっとすると、最後の立体的御殿も、真っ黒な三重目??

【雨戸の高さの確認】駿府城天守の真ん中で東西方向に縦切りにしてみる

すると駿府城は天守台があまりに巨大なので…(堀の水底からの高さが11間と伝わる)

ちょっと強引かもしれませんが、このように見て来ますと、当時、天守の最上階で重宝された雨戸が、駿府城天守では三重目にあった可能性があるとなれば、それは取りも直さず、三重目が実質的な望楼(物見)だったのではないか… という想像も働くわけなのです。

そして上図のように、その高さ(位置)は、巨大な天守台のおかげで、他の有力大名の天守の最上階に匹敵していたのですから、あながち暴論とも言えないのではないでしょうか。

3月の記事から「二重目の高欄の目的」を話題にして来ましたが、実は、そのすぐ上に、実質的な望楼(最上階!)があったというならば、駿府城天守においては <実用上の機能は三重目までで完結していた> という可能性も出て来ることでしょう。

じゃあ、その上の階はいったい何なんだ!?… という疑問は次回の検討課題とさせていただいて、ここはやはり、天守台上の周縁を取り囲んでいたとも言われる「四基の隅櫓と多聞櫓」は、二重目の高欄からの眺望をさえぎり、なおかつ実質的な望楼(三重目)にとっても視界の邪魔だったかもしれない、となれば、ますます居場所が無いように思われて来るのです。


<メカニズムの源流… 宮上重隆「金閣」復元図との突き合わせ>


さて、ここでちょっと話が飛ぶようで恐縮ですが、京都・鹿苑寺の「金閣」は、一・二階が同一の規模であり、一階に落縁、二階に高欄がめぐっている点で、駿府城天守と様式が同じであると言われます。

そしてさらに、室町幕府の三代将軍・足利義満による創建時から、ちょうど徳川家康が生まれる数年前まで、金閣は、形や色がそうとうに現状(昭和の再建)とは違うものであった可能性が、宮上茂隆先生によって指摘されました。

宮上茂隆「金閣」復元図 / 引用:『週刊朝日百科 通巻558号』1986年より

宮上先生の下記の解説文に沿って、着色を当ブログが修正してみたもの

ご覧の図は、1950年(昭和25年)の放火で焼失した金閣は、明治時代の解体修理の際に、個々の部材に至るまで詳細な実測図が作られていて、それらをもとに、宮上先生が創建時の様子を復元した図です。

(宮上茂隆解説『金閣寺・銀閣寺』1992年より)
1.当初、三階は内外金箔押しであったが、三階床と縁の床・高欄・腰組はすべて黒漆塗りであった。(中略)
2.当初、二階は、高欄を除いて内外ともすべて黒漆塗りだった。現在は三階と同じように、床以外すべて金箔押しになっている。(中略)
3.当初、三階の中心は、一・二階の西側主室の中心と一致していた。二階屋根の東部は入母屋屋根であった。屋根は檜皮葺きであったとみられる。現在の三階中心は、一・二階の全体の中心と一致している。屋根は腰屋根で、柿葺きである。

現状の金閣に比べますと、三階の位置がまるで違うこと、そして二階がほぼ真っ黒であったことに驚いてしまいますが、こういう結論に至った、宮上先生の分析(解説文)には説得力が感じられます。

そして特に、次の部分が重要であるように、私なんぞには感じられてなりません。

(宮上先生の前掲書より)

(八代将軍の足利)義政が発した質問に対する僧 亀泉集証(きせん しゅうしょう)の答えから、金閣は舎利殿であること、二階の観音像は、当初の観音が乱中に失われ、乱後に替わりのものを安置したこと、三階は阿弥陀三尊と二十五菩薩来迎像を安置していたが、いまは来迎像の白雲だけしか残っていないことがわかる。
舎利殿は、義満が敬愛した夢窓疎石(むそう そせき)が作庭した西芳寺の、庭園内中心建物であった。一階は座禅の床となる住宅建築、二階は舎利を安置した禅宗様(唐様)仏堂だったとみられる。
金閣が、釣殿(つりどの)である住宅建築の上に、仏堂(二階は和様、三階は唐様)を載せる構成になっているのは、それを模したものということになる。

つまり金閣は庭園の楼閣ではあるものの、西芳寺の舎利殿にならって、一階を住宅建築とし、二階・三階を本来の目的である仏堂(舎利殿)という形で、立体的に構成した建物だというのです。

しかもその構成に忠実な色彩として、一階は素木(しらき)造り、二階・三階は「黒塗り」「金箔押し」という風に、内外の仕上げも使い分けていたことになります。

ちなみに宮上先生の解説文によれば、金閣がこうした創建時の状態から、現状に近い姿に改築されたのは、天文6年(1537年)の修理の際ではないかとされています。

そこでもう一度、駿府城の三重目に注目しますと、あくまでも「三重目が黒塗りの雨戸であったら」という仮定の上の話ではありますが、慶長12年末の火災ののち、この天守が巨大な天守台穴倉?の底面の上に再建されることになった時、いったい誰がそこに「金閣に似た」構造や色彩を提案したのか…

三重目が「黒塗り」という、様々な意味を踏まえた意匠であったのなら、それこそ、発案者としての「小堀遠州」の影が、(私なんぞの頭の中には)チラついてならないのです。


追記)ちなみに宮上先生の復元図には、当サイト仮説の安土城天主の「天守指図」新解釈が、大きな影響を受けておりますことを、この際、白状いたします。このことには、実は「天守指図」五重目と、金閣の創建時の二階・三階の内部構造が似ている、という思わぬ事情が反映されています。

そしてこれは、構造面だけでなく、階下の住宅と、高層階の別目的、という建物の使用形態にも話が及ぶものです。…


作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)

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