城の再発見!
駿府城天守のまわりは付櫓か? それとも広大な「露台」か!?



2013年4月14日 第147回
駿府城天守のまわりは付櫓か? それとも広大な「露台」か!?

天守から何が見えたのか/…反対の南側には太平洋の水平線も

北東に見える富士山(この写真はサイト「BLUE STYLE 第二事業部」様からの引用です)

(※静岡県庁別館21階からの撮影/写真左下が駿府城公園の一部)

お話は前々回からの続きになりますが、大日本報徳社蔵の城絵図によって、これまで「天守台四隅の隅櫓」と思われた墨塗り部分が、よくよく見れば天守にしっかりと接続していることは、駿府城天守を「究極の立体的御殿」と考える上で、見逃すことの出来ない重要な情報であったと感じています。

では、天守台上の幅広い墨塗りをどう解釈すべきか?と申しますと、天守と接続していることから該当するのは、まずは下写真のような「付櫓(つけやぐら)」ではないでしょうか。

福山城天守に接続した付櫓(園尾裕先生所蔵の古写真より)

もしも古写真のような付櫓の類であったなら、図の駿府城天守に登閣した者は、そのまま二階から水平移動で、天守のまわりの付櫓に入ることが出来たでしょうし、さらに歩を進めて天守台周囲の風景を眺めることも出来たでしょう。

ですから、こうした構造であれば、前々回に引用させていただいた八木清勝先生の懸念(天守二階からの眺望の問題)は、もしかすると、取り越し苦労になるのかもしれません。

で、多少、前々回とダブりますが、もう一度だけ、八木先生の文章を確認しておきますと…

(八木清勝「駿府城五重天守の実像」/平井聖監修『城』第四巻より)

天守の二階に高欄を設けたのは、二階からの眺望を得るためと思われる。
天守台上の地面と外側石垣との差は十二尺五寸(約三・八メートル)で、二階床面がわずかに外側石垣の天端より高い程度である。
天守台外周石垣上に多聞櫓を設けると二階からの眺望はほとんど望めなくなる。眺望を妨げずに石垣天端に建てられるのは土塀くらいの高さまでの建物である。
少なくとも富士山や臨済(りんざい)寺、浅間(せんげん)神社を見渡せる西北から東にかけての方角には、二階からの眺望を妨げる、多聞櫓のような高さ二十尺(約六メートル)を超える桁行の長い建物は建てられなかったと思われる。


ご覧の文面でお気づきのとおり、八木先生の指摘で肝心かなめの部分は、懸念の発端が「二階に高欄を設けた」のは何故か? という、高欄の目的にある点です。

ですから「付櫓」であってもダメ…… と言いますか、とにかく天守二階の高欄からの眺望をさえぎるものは、それが何であれ、天守の設計と矛盾してしまうだろう、という考え方なのです。

(※この観点は、前々回も申し上げた「隅櫓や多聞櫓は文献史料に一言も書かれていない」という件も深く関係して来るでしょう)

まぁ細かい事をつつくようですが、この部分が一番大事なキモになるわけですから、それにしたがって第二の可能性を探ることにしますと、次に浮上して来るのが、ちょっと意外な「露台(ろだい)」なのではないでしょうか。!!

露台造りの実例:手前の板張り部分が厳島神社の平舞台(国宝)

(※この写真はサイト「日本の遺産〜日本で出会う遺産」様からの引用です)

露台とは、ご覧のように屋根の無い、御殿から張り出した広い縁側のような構造物でして、一般にはその上で池庭を鑑賞したり、宴席を設けたり、という目的で造られて来たものです。
ただし写真の厳島神社「平舞台」の場合は、これそのものが本殿の前の「庭」という位置づけだそうです。

そういう言わば遊興施設?の一部ですから、天守のまわりに露台、というのは前代未聞のことで、またまた私の妄想癖が始まった(…)とお感じになるかもしれません。

ですが、天守のまわりの天守台上に(どういう目的なのか)空地を設けた事例が歴史的にいくつかあったことも、ご承知のとおりです。

例えば以下の各天守で、その空地の目的が判明しているものは一つも無く、これらはおそらく、過去の何らかの形態のなごりではなかったのかと、私なんぞには感じられてなりません。
・会津若松城天守
・小松城本丸御櫓
・金沢城御三階櫓
・安土城天主(当サイト仮説)等々

一方、これらと駿府城天守との違いは、駿府の方には大きな「穴倉」状のくぼみがあることで、言葉を換えれば、天守台上が大きな矩形の石塁で囲われている点でしょう。

ですから、露台でその上を覆ってしまうのなら、何故、わざわざ天守台を石塁で囲んだのか… この場所は防御的なのか開放的なのか、方向性がはっきりせず、設計に矛盾が生じるではないか… といった疑問は当然のことです。

この件に関しては、以前のブログ記事でも申し上げた、駿府城天守の完成までの特異な経緯(駿府城の「超巨大天守」は本当に馬鹿げた話なのか)や、下図の名古屋城との相似形の裏に、疑問に対する答えや真相が隠れているのではないかと勝手に想像しております。

これについてはすぐに答えが得られるわけでもありませんので、ここは、今回のお話を最後まで申し上げてしまいますと、天守のまわりに「露台」という前代未聞の形でスペースが設けられたとしても、正直申しまして、私はさほど違和感を感じません。

何故かと申しますと、以前にもご覧いただいたイラストですが…

天守のいちばん原初的なイメージ 〜織豊期城郭の求心的な曲輪配置の頂点に〜

 
ともに派生形か… 天主台上に空地をもつ安土城天主(仮説) / 本丸石垣の一隅に建つ高知城天守(現存)

ご覧のように、そもそも最初の天守は、おそらく敷地の台上にタップリと空地があったのだろうと想像しているからです。

ですから駿府城天守のまわりに広大な「露台」がめぐっていたとしても、それは全く奇異なことではなくて、むしろ天守の発祥に関わる、原初的な形態を踏まえた(才気あふれる)デザインなのだと感じられてなりません。

そこには中国古来の「台」の伝統も垣間見えるようで、駿府城天守の造型に小堀遠州が関与した可能性は低いとも言われますが、もしも今回申し上げたような構造が天守の周囲に施されていたなら、そこはまさしく、大王の「国見(くにみ)」の場にもふさわしい気配が漂っていたのではないか… などと思わず空想してしまうのです。

広大な露台に囲まれた、新「王朝」府の天守か

作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)

※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ 人気ブログランキングへ
※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。