城の再発見!
続「究極の立体的御殿」…それが安土城天主の朱柱(しゅばしら)を受け継いだ可能性を想像する



2013年3月31日 第146回
続「究極の立体的御殿」…それが安土城天主の朱柱(しゅばしら)を受け継いだ可能性を想像する

これらを淀城天守と同形式と考えていいのか…

大雑把に描いたものと思われた「黒い墨塗り」が、発掘調査等に基づく天守台に当てはめてみると、天守の部分が「10間×12間」に測ったようにジャストフィットしてしまう!!
この意外な現象は、大日本報徳社の城絵図に対する、これまでの見方を改める必要性を問いかけているのではないでしょうか。

とりわけ「四隅に独立した隅櫓」とされて来た墨塗り部分が、原資料の城絵図では天守にしっかりと接続していることは、これまで全く省みられなかった点です。

少なくともこの点だけは、駿府城天守を「究極の立体的御殿」と考える上で、見逃すことの出来ない重要な情報であったと感じます。
ということは、これらは最低限、「隅櫓」ではなく「付櫓(つけやぐら)」か何かと考えるべきであって……

<閑話休題>

まことに恐縮ながら、このように前回から続く構造的なアプローチのお話はここで一旦、次回に先送りさせていただきまして、今回は是非とも、当ブログが「究極の立体的御殿」として駿府城天守にこだわる理由について、ちょっとだけ、念押しさせていただけないかと思います。

と申しますのは、この件ではどうも筆者だけが勝手に興奮しているようで、こうまでしてお話を続けている心理的な背景が、今ひとつ、伝わっていないような気がしてならないからです。

諸書に「朱茶色の柱」と解説される築城図屏風(名古屋市博物館蔵)の天守

前回も申し上げたとおり、駿府城天守を描いた絵画史料としては、ご覧の「築城図屏風」がたいへん有意義な点を含んでいると思われ、この描写を一方の「東照社縁起絵巻」と比べた場合、いくつもある相違点のうち、最も特徴的なのは「朱茶色の柱」でしょう。

この「朱茶色」は屏風の経年変化でどれだけ退色した状態か分かりませんが、赤系統の一色で塗られた柱や長押、妻飾りなどの描き方は、全国の丹塗りの神社仏閣でよく見かける手法になっています。

例えば、筑波山の日枝神社・春日神社の拝殿(写真はサイト「Thanking Nature」様からの引用)

築城図屏風の描き方も、破風の豕扠首(いのこさす)などソックリ

破風内で斜め材と束を組み合わせた「豕扠首」は、神社仏閣や官衙(かんが)建築でポピュラーな妻飾りであり、写真の拝殿は江戸初期・寛永10年の造営です。

一方、このように赤い柱や長押を建物全体に見せた天守は、現在、屏風絵など美術品の表現でしか見られませんが、しかし天守の歴史において“赤い部材”は皆無だったか、と言えば、そんなことは無いわけです。

徳川家康は安土城で何に心ひかれたのか? と想像すると…

前々回も申しましたが、天正10年、家康主従は本能寺の変の半月ほど前に安土に招かれ、その様子は『当代記』の「五月十五日、家康安土へ着給」で始まるくだりに紹介されていて、安土滞在の最終日、一行は山頂主郭部の御殿や天主を一日かけて見物することが出来たようです。

(『当代記』より)

廿日家康を高雲寺の御殿(※江雲寺御殿か)へ被稱(あげられ)、酒井左衛門尉を始家老之衆、并武田陸奥守穴山事(※穴山梅雪)被召寄、殿守見物仕、さて元の殿へ帰 膳を被下、夜半迄色々被盡美

この約二ヶ月前に“朝敵”武田勝頼を共に討ち果たし、今度はその家康に安土城の天主をじっくり見せた織田信長の底意を推し量りますと、改めて「天下布武」の体制転換の構想を、同盟者の家康にも理解させたい、という願望があったように感じられてなりません。

例えば以前のブログ記事でもご紹介した、『朝日百科 安土城の中の「天下」』の解説文の「安土城というのは平安の内裏の復活だったのではないか」というほどのニュアンスが、この時、家康らに伝わったのかどうか分かりませんが、その後の家康の生涯を見ますと、慶長20年の禁中並公家諸法度(きんちゅう ならびに くげしょはっと)によって、徳川幕府が天皇から日本国の大政をあずかる「大政委任」という形に持ち込んだことは重要でしょう。

そういう政治動向の影響なのか、江戸初期、徳川親藩をはじめ大名らの間では「王朝風」の美術品や庭園・建築等が盛んにもてはやされ、また家康自身は外国人から「皇帝」と呼ばれたことなどは、当時の公武関係の(逆転した)空気を物語っているのかもしれません。

安土城天主の「赤」の復元方法 … 宮上茂隆案 / 内藤昌案 / 兵頭与一郎案

そうした時流の推移を踏まえて、家康の安土訪問を振り返りますと、安土城天主は中層部分に「赤い漆を塗った木柱」(フロイス『日本史』柳谷武夫訳)があり、ひょっとすると家康は、まばゆい金箔瓦や金具よりも、むしろその“王朝風の赤い柱”の方に心ひかれたのではあるまいか… などという妄想に、私なんぞは捕らわれてしまうのです。

そうであったとすれば、色んな事柄に一本、筋が通るような気がしてならないからです。

平安京の赤色の再現 / 近代以降では平安神宮の蒼龍楼(1894年造営)など



<駿府城の普請奉行・小堀遠州(こぼり えんしゅう)
 王朝的古典建築に通じた遠州は、天守の設計には関与しなかったのか??
 ならば、あの初重・二重目の御殿風の造りは、いったい誰の発意だったのか…>



小堀遠州(頼久寺蔵の肖像画/ウィキペディアより)

さて、ここで是非とも申し上げたいのが、下記の森蘊(もり おさむ)先生の古典的著作で「時のアイデアマン」と評された、小堀遠州の存在なのです。(※当ブログはようやく遠州について触れられる段階に来ました…)

(森蘊『小堀遠州の作事』1966年より)

将軍家が作介(=小堀遠州)の実力を認めはじめたのは、慶長十一年(一六〇六)後陽成院御所の作事奉行に任じ、同十三年(一六〇八)駿府城奉行をつとめさせた時以来であって、その機会に従五位下遠江守として諸大夫の一人に取立てられたのである。
更に慶長十六年(一六一一)からは禁裏の造営、十七年(一六一二)名古屋城天守の修復にと、遠州の活動範囲が急にひろがっている。

(中略)
遠州は前述の如く諸大名が単に賦役的に名を連ねた作事奉行と同列ではない。
また中井大和守正清、五郎介正純親子のような家系による大工頭や棟梁というような職人的技術家でもない。
幼少の頃から作事奉行としての父新介の現場指導振りを見聞し、物心ついてからは南都一乗院はじめ王朝的古典建築の意匠を理解し、それを時代とともに移り変る宮廷生活に適合させるよう便化すべきを提案した。

小堀遠州の頭抜けた才能を示した、仙洞御所の切石で囲んだ池庭(復元)

(※お茶の郷博物館より/写真はサイト「LonelyTrip」様からの引用)

この遠州こそ、天守の歴史にもただならぬ影響を与えた人物だと思うのですが、駿府城の普請奉行をつとめた慶長の頃はまだ「細部意匠に口ばしをはさむ余地はなかった(上記書)」とも言われ、そのせいか、遠州と駿府城天守の造型との関係はほとんど言われて来ておりません。

しかしそうだとすれば、あの初重・二重目の御殿風の造り(開放的な落縁や高欄)はまったくもって突然変異のようで、いったい誰があんな構想を言い出したのでしょう。

よもや大工棟梁の中井正清の進言とも思えませんし、やはりこうして考えた場合、発案者として最も相応しいのは「小堀遠州」であり、もしも遠州ではないとしたら、それこそ「家康その人か」という結論にもなって来るわけで、この事柄の意味合いに、もっと議論がなされるべきだと思うのですが、どうでしょうか。


それぞれの天守に込められたモチーフは…
安土城→皇帝の館か / 豊臣大坂城→八幡神の塔か / 駿府城→ 新「王朝」府か

そろそろ今回の結論を申し上げるなら、慶長13年頃の段階で、駿府城天守が全身に赤い柱や長押を見せていた場合を想像しますと、それは必ずや近いうちに豊臣関白家を討滅して、天皇から日本国の大政をあずかるに相応しい新「王朝」府を、先取りして築いたかのように見えてなりません。

それは伝統に対する巨大な欺瞞(ぎまん)と申しますか、軍略家としてのハッタリと申しますか、新たな関東武家政権として、いよいよ図に乗る風を、上方にあてつけがましく見せていたようにも感じられます。

そこには戦場の勝利者ならではの身勝手さが横溢(おういつ)していて、政権簒奪(さんだつ)の象徴として打ち立てられた「朱柱」の「最後の立体的御殿」、というところに、私なんぞは思わず興奮してしまうのです。

作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)

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