「お城の天守閣って何のためにあったの?」

これスゴい難問です。天守閣(天守)に住んだ城主は殆ど皆無でしたし、天守はたいがい締め切ったまま。落城のとき天守に駆けのぼり腹カッサバイて…なんて例も、実際は殆どありませんでした。
そもそも、武士がなぜ安土桃山時代になって突然、天守のような高層建築を必要としたのか、研究者もなかなか説明できないのが実情です。
天守(天守閣)は、いまだに解明されない謎だらけの、不思議な建造物なのです。


天守が建てられた本当の理由

作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)

第1弾    2008冬季

第1弾リポート「豊臣秀頼の大坂城再建天守」にスキップ     2008冬季リポート「秀吉の大坂城・前篇」にスキップ

ブログ「城の再発見!天守が建てられた本当の理由」にジャンプ

ランダム6


当シリーズ『天守が建てられた本当の理由』の主旨

日本固有の建造物である「天守」は、各地で郷土のシンボル的存在となって来ました。でも、建造の目的は何だったのか?と問われると、今や日本人の誰一人としてハッキリと答えられません。

お城には居住のための御殿はあり、戦闘のための櫓(やぐら)は別にありながら、諸大名はいったい何のために、あのような大建築をわざわざ巨費を投じて建てたのか。誰に聞いても、どの文献を見ても、明確な理由が分からない。

この状況の裏には、実は、日本史の闇に消えた「根深い作為」が介在した疑いがあります。
まさかとお思いかもしれませんが、「一国一城令」をとどめとする徳川幕府の政治的誘導のため、天守建造の当初の目的は巧妙に換骨奪胎され、本来の意味が日本人の意識から薄れ、やがて深い忘却の淵に追い込まれた可能性があるのです。

その結果、いま私達の目の前にあるのは、意味不明の大建築 "天守閣" の数々なのです。

当サイトのリポートは、この状況を生み出した徳川幕府の深謀と工作をシリーズでつぶさに追い、歴史の底深くに封印された、天守本来の「凶暴なる実像」をサルベージしてまいります。

それがいかに現代人の認識を超えたものであり、言わば織豊政権による「天下布武の革命記念碑(維新碑)」とも称すべき建造物であったことをご紹介しつつ、「天守が建てられた本当の理由」を明らかにしたいと考えています。



現状
 
大阪城への最寄駅:以下は城域内までほぼ等距離
東から入城→JR 【大阪環状線】森ノ宮駅、大阪城公園駅
西から入城→地下鉄【谷町線】天満橋駅3番出口、谷町四丁目駅1-B番出口
南から入城→地下鉄【中央線】森ノ宮駅1番出口、3-B番出口、谷町四丁目駅9番出口
北から入城→地下鉄【長堀鶴見緑地線】大阪ビジネスパーク駅1番出口、森ノ宮駅3-B出口

ご挨拶がわりに、城郭ファン必見の「大胆仮説」をひとつ (第1弾リポートの前説)


400年前、豊臣時代の大坂城には
秀吉の天守の他にもう一つ、幻の
天守がありました。それが秀吉の
遺児・秀頼による「再建天守」
でした。

これを裏付ける合理的な根拠が、
「唐破風」と、『愚子見記』にあります。

いまなお城郭ファンの興味の的であり続ける、豊臣時代の大坂城天守。

この幻の天守を描いた絵画史料として、比較的信用度が高いとされる二つの屏風絵が、よく例に挙げられます。
ところが、両者はまったく別の建築のように描かれています。

ご覧のように、両者は屋根の構造や向きが異なり、破風(はふ…三角等の屋根飾り)の数や配置も異なり、とても同一の天守としては考えられないほどの差異があります。

二つの天守画像

それぞれの画題となった「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」の戦いは、その間の休戦期間が4ヶ月しかなかったにもかかわらず、なぜ天守の姿が異なるのか?
では、どちらが本当の姿に近いのか? この問題は、やや大げさなようですが、日本の城郭研究史上の「大きな謎の一つ」とされて、城郭ファンの関心を集めてきました。

この違いが生まれた遠因として、例えば、慶長元年1596年の大地震で「天守が倒壊した」という宣教師の報告(邦訳『日本西教史』)もあります。
このため豊臣時代に天守の「改修」があった可能性も取りざたされていますが、そうした事実は、これまでのところ日本側の文献では確認できていません。

結局、屏風絵の謎は解明できないまま、いまだに城郭研究者の悩みのタネとなっているのです。


そこで当シリーズが、日本の
城郭研究の長年の悩みを払拭する
「突破口」を、初めてお示しします。

第一の突破口は「唐破風」です。

この突破口からブレイクスルーする
と、その先に「秀頼再建天守」の
実在性が明らかになります。

 
 <大坂城の基礎知識>
 天正11年(1583) 秀吉、大坂で築城を開始
 慶長3年 (1598) 秀吉死没。家督相続は5歳の秀頼(ひでより)
 慶長20年(1615) 大坂夏の陣で落城し炎上。秀頼自刃(享年23)。豊臣家滅亡
              …
 昭和6年 (1931) 現在の復興天守閣が竣工


下の絵は、二つの屏風絵の片方『大坂夏の陣図屏風』を、さらに拡大したものです。

これは豊臣の大坂城が徳川幕府の大軍に再び攻められ、ついに落城した「大坂夏の陣」を描いた屏風ですが、ご覧のように、この絵の大坂城天守の屋根には「唐破風(からはふ)」があります。

唐破風のある大坂城天守

唐破風とは、弓形の曲線を形づくる屋根の飾りで、鎌倉時代に寺の玄関などに使われ始め、その後、勅使門や車寄せなど、高貴な人物を迎える箇所の屋根に使われたものです。

名称に「唐」の字がありますが、あくまでも禅寺の("中国"風の)意匠が人々にそう呼ばれただけで、実際は板材(及び瓦)で強い曲線を形づくるという、日本の木材の特質を活かした日本固有の建築意匠でした。


天守の唐破風は、必ず城の大手門に向けられていたことをご存知でしたか?

屏風絵と同じように、てっぺんに唐破風を据えた天守は、各地の城で建造されましたが、その唐破風が向けられた方角も明らかになっている例は限られます。
では、それらの唐破風の向きと、城全体の位置関係を図示してみましょう。

唐破風1
唐破風2
唐破風3

ご覧のように結果は一目瞭然で、唐破風はどれも、ほぼ大手門の方角に向けられていたのです。
これらの城では、登城者が大手門を通って三ノ丸や本丸に入ったとき、天守を見上げると、多くの場合、唐破風が正面から見えるようになっていた訳です。

(※このうち丹波亀山城はやや例外で、おそらく明智時代と天下普請後で大手の変更や混乱があったものとも思われます。また尼崎城や淀城のような輪郭式の城では、大手の位置づけがあまり明確ではない傾向もあるようです。)


唐破風とは、層塔型天守の「正面」を示すための目印だった?

さらに、唐破風が天守の最上重に設けられた契機については、建築の構造的な要因を挙げることもできます。
まず天守の大まかな歴史として、望楼型から層塔型に移りかわるなかで、最上重の平面規模が増大し、頭でっかちなプロポーションになりました。
ご覧のように、初重に対する最上重の面積比率は、望楼型と層塔型では2倍近くも差があります。

望楼〜層塔

さらに次の図で両者を比較しますと、望楼型では、最上重の屋根の妻側破風(三角形の「入母屋破風」)は天守の入口側を向いていました。
つまり望楼型では、(平入りでも妻入りでも)入口と最上重の妻側破風はかならず同じ面(=正面)で一致していて、言わば、てっぺんの破風は「正面の目印」でもあった訳です。

90度

ところが、層塔型になって最上階を広くとると、図のように屋根の向きを90度回転せざるをえなくなりました。この時、最上重の屋根の妻側破風が、天守の側面を向いてしまうという、ある種の"不備"が生じたのです。

それまでの望楼型を見慣れていた武将らは、層塔型で生じた"思わぬ不備"をおぎなうため、高貴な門や玄関(=入口)にあった「唐破風」に着目し、天守の「正面性」を担保する代用物として、採用したとも考えられるのです。

下写真の彦根城天守(国宝)も同様で、層塔型への過渡期(慶長11年)に建てられましたが、建物の平側(長辺)にまだ入口があり、その方角(天守正面かつ大手方面)に向けて、てっぺんの屋根に唐破風を据えています。

彦根城の唐破風



豊臣期大坂城の場合、天守の唐破風は東西ではなく、「南北」を向いていたはず

では、こうした天守最上重の唐破風と城全体との関係を、大坂城に当てはめてみましょう。
冒頭の唐破風の天守が描かれた「大坂の陣」の開戦当時、大坂城の周囲には約8kmに及ぶ外郭線「惣構(そうがまえ)」が廻らされていました。

唐破風大坂

この惣構を貫けて城内に入る主要ルートは北と南の二つがあって、北は京街道が「京橋」を経て城内に至り、南は奈良街道と阿倍野街道が合流して「天王寺口」「八丁目口」に通じていました。

また三ノ丸は発掘成果による論争が続いていますが、いずれにしても大坂城は二ノ丸が本丸を取り囲み、輪郭式の性格を含んでいるため、「大手」は本来の生玉口に加えて、玉造口、京橋口という、三方向を考えざるをえません。

さらに天守自体の入口は、明らかに南面でした。

とすると、より相応しい唐破風の向きとしては、東西方向ではなく、むしろ「南北」方向であったと考える方が、はるかに自然なのです。



問題の『大坂夏の陣図屏風』は、南から見た姿の天守等がはめ込まれて描かれている??

さて、冒頭から問題の『大坂夏の陣図屏風』には、ある重大な落し穴が隠されています。

この屏風はこれまで、城の南にあった大御所・徳川家康の本陣を右端に描き、大坂城や北方の淀川水系を中央から左にかけて描いているため、城や天守は当然、「西」から眺めた姿であると考えられてきました。

ところが、これには大いに疑問があるのです。

夏の陣図屏風

疑問1.「千畳敷」御殿の屋根方向

屏風には巨大な千畳敷御殿が「南北棟」の屋根であるかのように描かれています。
これは従来から問題視された点でもありますが、この千畳敷の屋根の向きが、他の史料では「東西棟」であったと考えられ、一致しないのです。

例えば、豊臣時代の本丸の平面図と言われる中井家蔵『大坂御城小指図』(通称『本丸図』)では、表御殿の対面所が東西棟の殿舎として描かれています。
ほぼ同じ場所に造営された千畳敷も、敷地の都合からは同じく東西棟とする方が自然なのですが、それでは屏風絵と一致しません。

ですが、もし屏風絵の千畳敷が「南」から見た描写だとしたら、まさに屋根は「東西棟」であり、他の史料と矛盾せず、見えたままの向きで描いたことになります。

ちなみに、この屏風を描かせたとされる黒田長政の軍勢は、合戦時は城の南方、二代将軍・徳川秀忠の本陣近くに布陣。天守まで約4kmの地点で、天守が炎上するまで秀忠本陣の守りを固めていたとされています。

疑問2.天守の窓の女性

屏風の天守の窓には、不安げな表情を浮かべる女性達の顔が描かれています。
実はこれも南からの描写をうかがわせるポイントで、何故なら、この戦の決戦場は、幕府方によって破壊された天王寺口など、やはり城の南方だったからです。

窓の女性

絵の描写を素直に受けとめるならば、「天守の女たちは南の戦況をみて動揺した」と解するのが、より自然な見方ではないでしょうか。
そしてそんな様子を目撃できたのも、黒田勢が城の南にいたことによるのかもしれません。

疑問3.天守の四神

ここまではやや状況証拠の感もありますが、次にご紹介する「四神」(しじん)は決定的と言わざるをえません。

小壁の朱雀

アジアでは古来、東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武という四神が、天の四方を司る神獣として信じられて来ました。
そして屏風絵の天守には、最上階の小壁にくっきりと「南の朱雀(鳳凰)」が描かれています。

つまり「描いた天守は南面ですよ」と絵師が教えてくれているにも等しい証拠が、一緒に描き込まれているのです。

実は、この四神の存在は、過去に故・宮上茂隆先生などが指摘されたものです。

しかし例えば宮上先生の復元図では、建築の構造は屏風絵に近いままで、小壁の四神だけ「西の白虎」に差し替え、それを天守の西面として復元されるという、やや理解に苦しむ結論に至っておられます。
やはりここは古来の用法どおり、朱雀のある壁面は南であったと理解すべきではないのでしょうか。

そこに絵師の「常識」というハードルが介在したことも考慮すれば、なおさらそのように思われます。
絵師が誰であったかについては、日本美術史の武田恒夫先生は、狩野永徳の父・松永の門人であった狩野八郎兵衛元休という、狩野派絵師であった可能性を指摘しておられます。

結論として『大坂夏の陣図屏風』には、実は、南から見た天守や千畳敷御殿がはめ込まれて描かれている、という驚くべき可能性が浮上するのです。

そうして「大坂夏の陣図屏風の天守は南面(!)」と考えたとき、幻の大坂城天守の復元をめぐる長年の混乱にも、初めて合理的な収拾の道が見えてきます。



論争に終止符!『大坂冬の陣図屏風』の城は大坂陣当時(秀頼時代)の描写ではない

さて、もう一つの重要絵画史料である『大坂冬の陣図屏風』は、同じ豊臣期の大坂の陣を描いた絵でありながら、その天守は、最上重に唐破風が無いなど、建築的な特徴がまったく異なり、城郭研究者を悩ませてきた史料です。

創建天守

そうした混乱の原因として、こちらの屏風は、いっそう複雑な事情をはらんでいたのです。

と申しますのは、この屏風の絵師は、城絵図や配陣図など、様々な史料を集め、それらを「合成」して、大坂城を描いた可能性が濃厚なのです。

その最大の根拠は、史料の不一致点など、絵師にとって不明な箇所が、屏風絵特有の「金雲」で、巧妙にごまかした跡がいくつも見つかることです。

冬の陣図

疑惑1.「千畳敷」御殿の辺りをさまよう金雲

巨大な千畳敷は、秀頼の代には二階建てに改められ、絢爛さを際立たせたと云います。文献や配陣図にも色々と示され、冬の陣当時も威容を示していたにも関わらず、何故かこの『大坂冬の陣図屏風』には描かれていません。
そして前述の中井家蔵『本丸図』も、理由は定かでありませんが、「千畳敷が無い」ことはよく知られています。

つまり『大坂冬の陣図屏風』と『本丸図』は、この点が不思議と一致しているわけで、改めて屏風絵の千畳敷があるはずの辺りを見ますと、そこには金雲がたれ込め、その手前に『本丸図』に符合するかのような殿舎が“申し訳程度”に描かれているのです。

疑惑2.山里丸を覆いつくす金雲

同じことが本丸北部の山里丸(山里曲輪)でも発生しています。

大坂陣の開戦当時、山里丸には淀殿の御母堂屋敷や豊国廟のあったことが、文献等から明らかです。が、残念なことに中井家蔵『本丸図』はその山里丸が空白になっていて、建物の概要もつかめません。

そこで屏風絵の方はどうしたかと見れば、千畳敷の場合にもましてブアツい金雲が、山里丸をすべて覆い隠しているのです。

疑惑3.屏風絵の本丸奥御殿は180度回転している

屏風絵の本丸奥御殿には、鎧をまとった豊臣秀頼が描かれています。

その周辺の殿舎の並び方を仔細に眺めてみますと、それらは中井家蔵『本丸図』の奥御殿を、東西が逆になるように、180度回転した形で描いていることが分かります。

奥御殿が反転

『本丸図』と照らし合わせれば、建物の名称も分かります。
すなわち秀頼のいる御殿が「小書院」であり、その奥には屋根に煙出しのある「台所」があり、左側の大きな屋根二つが「広間」と「対面所」です。
さらに左側の桧皮葺の楼閣は、織田有楽斎ゆかりの正伝院楼門と同形式の玄関と「遠侍」であり、辺りは南庭の路地、数寄の空間につながっていたことまで分かります。

繰り返すようですが、これらは『本丸図』の奥御殿をそっくり回転させた配置なのです。
このような画面の操作は、要するに、秀頼を小書院の縁先に(つまり屏風の正面に)いる形で描きたいがための工夫であったと言えます。

他にも同様の「疑惑」がいくつか存在し、これらを総合しますと、『大坂冬の陣図屏風』の制作には『本丸図』等の史料が駆使された疑いが濃く、例えば次のような色別で示した複数の画像が組み合わされたのでしょう。

色分け


結論として、この中の天守もまた、粉本(絵師が使用した手本)をもとに描き込まれた可能性は強く、その描写の時期となると(おそらくは秀吉の創建時の天守であり)、冬の陣当時のものとは、とても言い切れないのです。

冒頭の『大坂夏の陣図屏風』の天守と建築的特徴が全く異なるという現象は、まさにこうした「合成」操作が原因だったものと思われます。
以上の諸点から、こちらの『大坂冬の陣図屏風』は、大坂陣当時の天守を解明する手掛かりとしては、もはや除外しても差しつかえないもの(!)と断言できます。


その存在の可能性が高まる秀頼再建天守

ダブルイメージ

したがって(冒頭の)唐破風のある大坂城天守は、秀吉の創建天守とは建造時期も違う、まったく別途の豊臣期天守ということになります。
こうして高まる秀頼再建天守の可能性は、当時の文献『愚子見記』に、ある不思議な数字が残されていることから、もはや疑う余地のない段階に至るのです!

その詳しい内容は、年度リポートでご覧下さい。

渾身の第1弾リポート

豊臣秀頼の大坂城再建天守

−復元篇−

「君子、虎の上に立つべし」
金色に光り輝く鳥獣の彫物が
倒幕の旗印と化したとき

再建4

主な内容
秀頼の大坂城、池田輝政の姫路城…徳川将軍の娘婿たちの「唐破風天守」
『愚子見記』の不思議な数字から判明する初重と最上重
千姫輿入れ後の再建ならば慶長後期の層塔型天守
最上重を飾ったのは九羽の鷺「九思図」ではないか
「君子、虎の上に立つべし」秀頼の正統性を訴える彫物群の危険な輝き
鉄灰色に描かれた壁面の正体

ご希望の方はこちらからご覧下さい。


日本各地で郷土のシンボル的存在になっている、
城の天守(天守閣)。
でも、その建造の目的は何だった?と問われると、
いまや日本人の誰一人としてハッキリと答えられません。

歴史の底深くに封印された、
天守本来の「凶暴なる実像」をサルベージ!!


天守が建てられた本当の理由
2008冬季リポート

秀吉の大坂城・前篇

王政復古政権の破格の建築なり。
天下人・豊臣秀吉の天守は
「丈間」で建てられていた

創建4

主な内容
肥前名護屋城跡で発掘された十尺間(丈間)の天守台
天下人・秀吉の天守はすべて丈間で築かれた??…京都御所の正殿(紫宸殿)と同格の天守建築!?
思わぬ符合が続出する発掘成果と文献。もはや武家の建築にあらず
「王政復古政権」による破格の天守の可能性
その天守は「軍神」八幡神の神紋で荘厳された!
秀吉の国家総動員体制と朝鮮出兵を扇動した黄金天守
丈間で二間四方の最上階、そして秀吉流「八角ノ段」の可能性

ご希望の方はこちらからご覧下さい。

トップにもどる


※当サイトはリンクフリーです。

Copyright (C) 2008 天守が建てられた本当の理由,Japan. All Rights Reserved.